HSPという名前がある安心感

私がまだHSPという存在を知らなかった、高校生3年生の頃。自分の劣等感に、弱さに、自己嫌悪が酷かった頃、ずっと思っていたことがある。

「自分がこんなに何もかも劣っているのは何かのせいであって欲しい。いっそ病気なら説明がついていいのに。」

もし自分が生まれつきの発達障害を患っていたとしたら、勉強がうまく続かないのも、友達と親しく雑談ができないのも、しかたがないことなんだと諦めがつくから。でも本当は病気ではなく、ただ自分がただの出来損ないなのだと実感するのが怖かったし、認めたくなかった。そう強く思うようになり、両親や友達には打ち明けずに鬱診断とかよくしてた。

大学3年生になった頃、HSPという言葉をよく聞くようになり、調べてみた。自分に当てはまることが多すぎて胸の中のモヤモヤがすっきりしたことを覚えている。私の言動に理解のある両親がほんのちょっと呟いた「国公立に行ってよ...お金がえらいことになるから」、本音を探り過ぎて喋ることがなくなってしまった友達との雑談、他の人はできることが自分にはまったくできていないと思うこと、全部私がHSPだからだった。他にも吹奏楽の曲はやればやり込むほど音楽に合った景色や映像が目に浮かぶし、綺麗な音や雨の水が軒下に滴る様子、日向ぼっこの心地よさも愛しているというほど好きだった。

HSPは病気ではない。でも自分がHSPだと知ったとき、私が感じる苦痛の理由がわかって本当によかった。原因がわかれば対策もできるからだ。これからはHSP気質のある人はどうすれば人と話しやすくなるのかを調べていこうと思う。

苦痛に理由をつければ安心感が生まれる。自分を少しだけ理解してあげられる。そんなことを感じる人が私の他にいるのかな。今のところの私に言い聞かせることばは「適材適所」である。

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