くだものの郷愁 長田弘『ことばの果実』


季節はずれの苺がなっている。
ドクダミ生い茂る庭に、野生化した苺。
紅一点、真っ赤な苺を見ていて思う。

「なる」ってこれだな、と。
ただ、土があって、そこに2年前に植えた苺の苗があって。人間は、水さえまともにやっていないのに、苺は毎年花を咲かせ、薄緑の実が大きくなるごとに真紅へと変化する。

ゴマ粒ほどのミニチュアイチゴみたいなものが、数百倍に拡大したらあのイチゴになるってことじゃあない。作りものみたいにベタ塗りされた濃い緑のなかに、ポッと白い花が咲いたかと思うと花びらが散って、ガクだけになって、しばらくするとムクムクっと薄緑の実ができて、それがどんどん赤くなる。それも放っておけば、アリなんかの虫がついて食われて、そのうちグズグズになって気づいたらなくなっている。

果実といふ現象…、という宮沢賢治みたいなことをおもう。


詩人の長田弘さんが、くだものについてのエッセイを書いていると知って、すぐさま求めた。
『ことばの果実』

詩も、言葉の畑からなった果実のようなものだ、とかおもうけど、ここに収められてるのは果実についての言葉。

なにかを食べるっていうのも、ふしぎな行為に感じる。自分じゃなかったものが、自分のなかに入っていく。味わうっていうのは、食べものが口のなかに滞在しているごく数十秒のこと。でも、そのあと食べものは一部が自分の身体になって、一部が出ていく。さっき食べたグレープフルーツのどの部分が私になるのかわからないけど。
土から成ったイチゴを見ていると、私はグレープフルーツを食べたはずだけど土も花も固くて青い実も食べたような気がしてへんな気分になる。


この本で、長田弘さんは、苺からさくらんぼ、オレンジ、ざくろ、なんとあんこに至るまで「果実」にまつわるエッセイを書いている。

風邪ひきのときに母が作ってくれた林檎のすりおろしの思い出、あるいは、黒ずんで皺だらけの老木に実る、宝石のようなさくらんぼの美しさ、あるいはまどろみのなかのキスのようなと、なまめかしい喩えをするグレープフルーツの甘美な記憶。

これを読んでいると、スーパーで買って無造作に白いビニール袋に入れてしまう98円のくだものも、ちょっと感受性を開いて味わえば50年後にふと思い出されるような体験になるかもしれない、と思う。


甘夏 長田弘『ことばの果実』より

 明るい日。スーパーマーケットの果物コーナーいっぱいに、日の光を指先掬ってまるめたような、やわらかな橙色の甘夏が無造作に、外の光の塊を積むようにつみかさねられると、ああ、今年も明るい季節がきたのだと、気持ちが開かれる。
 甘夏。酸味のつよい夏蜜柑をやわらげて改良された、甘夏蜜柑が略されて、そう呼ばれる。そして、その甘夏という言葉のふくむ五感が、果物のすっきりと爽やかな味とあいまって、いい匂いのする独特の明るい季節感をはこぶ言葉のように、いつかなっている。
 甘夏の季節がきた。弾むような心持ちから、ソフトボール大の甘夏を一個もとめ、掌でつつむようにして持ち、その感触を楽しみ、電車に乗り、都心のカフェで人に会い、話し、しばらく街を歩き、大きな公園の木々のあいだの小道をぬけ、日暮れて帰宅した日。
 大きな甘夏を掌に持って歩いて、結局そのまま持って帰った日。甘夏の切ないような味の清明の秘密を知った。明るい孤独の味なのだ。人が一人でいることのできる孤独な場所と孤独な時間が、甘夏のような果物にとっては、第一になくてはならないものなのである。
 甘夏をまるっぽのまま皮を剥いて、一房一房食べる。ただそれだけのことが、実は一人でしかできないことだからだ。余言なく、一人、黙々と、人の視線に妨げられず、無我に口にできていてこその、きれいな味。孤独というのは本当は明るいのだ。甘夏を欲するとき、人は甘夏のくれる明るい孤独を欲している。

甘夏のくれる明るい孤独。ものは、言葉とともに味わうものだなとつくづく感じる。


うめざわ
*「果物」についてのエッセイはそれ自体が美しいフルーツなのだけど、後半は「花実」について書かれていて、こちらは野性味がある。

もやしは天才である。もやしには、こわいものが何もない。世の中、経済の動向に一喜一憂とするなか、もやしは、円高円安、株高株安、物価指数、何一つまったく問題としない。どんな状況にも、値段ともいえないような最安値を誇って譲らない。 ――「もやし」
食べることの不思議さの一つは、食べずに食べ、食べずにその味を堪能し、食べずにそのおいしさを記憶することができることだと思う。わたしにとってアスパラガスがそうだった。 ――「アスパラガス」


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