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5.一般病棟に移ってから

ICUで1週間ほど過ごした後、一般病棟の個室に移動しました。面会謝絶の状態も続いていたので、両親は個室を選択しました。それに、完全看護のシステムだったとはいえ、ある程度元気になるまでは母も付きっきりの看病をしたかったようで、私の部屋で寝泊まりできる体制にはしたかったようです。

まだまだグッタリした状態が続く

開頭手術で左の頭の半分ぐらいにメスを入れたから、直ぐには回復するわけないでしょ?という感じでしたから、1-2週間は親戚等も面会に来れなかったのです。ほぼほぼ眠っていたし、起きていてもボーッとしていただけだったし。

でも、母は気丈に何も話さない娘に向かって話しかけてくれていました。

今から思えば植物やペットに話しかけるような感じ?

耳には届いているし、かけられた言葉も理解できています。でも、反応しないだけ、気分が悪いから寝ているだけ。それでも胎教のように言葉を入れていってくれました。

食欲も全く出ない。足の付け根に入った太い針から送られる点滴だけが唯一の栄養補給。病院側も食事に手を付ける事が出来なかった私を心配していたのか、病院食以外でも食べることができるなら食べさせて欲しいと、母に依頼をしていました。

でも食べられない私は、どんどん痩せていったのです。

そんな私が「食べる」といって食べたもの

一般病棟に移ってから10日ほどが過ぎ、限られた人だけが面会もようやくできるようになったころ、母の友人の1人が持って来た「洋食焼き」を見て私の顔が変わったのでしょう、直ぐに母が気付き食べさせてくれました。

美味しい!もっと!

ただそれだけ。1枚数百円の洋食焼きが私を生き返らせてくれました。

ほんの数分前まではグッタリしていたのに、1枚の洋食焼きを完食したことによって、その日出された夕食から食事が少しずつ取ることができるようになり、それによって元気が湧いてきたのです。

口から入る食事って凄いね、ホント。点滴だけじゃ力が出ない。

やっと生き返りました。

面会謝絶が解ける

普通に朝・昼・晩の食事が取れるようになったころ、ようやく面会謝絶が解けました。

近所の人、親戚、大学の友達、アルバイト先の友達、学外で遊んでいた友達…もうね、誰が来てくれたのか分からないぐらい大勢の人が転院までの約1ヶ月、入れ代わり立ち代わりで毎日お見舞いに来てくれて、花が部屋いっぱいにあふれていた状態。

大学に私が倒れた一報を入れてくれたのは同期ではなく2個上の先輩。丁度私の同期全員がある訓練旅行に出払ってしまっていて、付き添いで教授・助教授、1個上の先輩たちも出払っていて。連絡が付いたのはその2個上の人たち。

先輩たちの尽力のお陰で連絡は付きましたが、同期一同大きなショックを受けたようです。

私も同行する予定でしたが足の調子が悪く、舞台の関係上これ以上怪我をしたくないということで断念した訓練。今思うと虫の知らせだったのでしょうね。もし強行していたら、現地で倒れていたでしょう。手術するにも身内の承諾書待ちになるから、命はなかったと思います。

そういった意味で、たくさんの同期がやって来てくれました。もちろん担任担当の教授もお見舞いに来てくださって、本当に嬉しかったです。

話せない私の代わりに、母が受け答えしてくれましたけどね。

その辺りはちょっともどかしかったです。

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