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僕のニシャ #33【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 毛野は、二年になっても同じクラスだった。相変わらず、ジョークのタネだった。ろくに話もしていなかった。でも、僕はなんとなく――本当になんとなく声を掛けた。

「どうした?」
「う、うう……」
「怪我か? 具合悪いのか?」

 僕はしゃがんで彼の肩に手を置いた。大丈夫? とニシャが訊いた。彼は、でも何も言わずに、僕の手を払い、そして、行け、と言わんばかりに、腕を振り回した。

 僕たち三人は顔を見合わせた。僕は再び、大丈夫なのか? と問うた。彼は、首を何度も縦に振った。苦しそうな表情だった。行こうよ、と新條が言った。うん、と応えて歩き出したものの、なんとなく気になった。二百メートルくらい歩いて、やっぱりほっておけないと思った。

 重病かもしれない、何かあったら、きっと後悔する、僕はそう思った。

「先行っててくれる?」と僕は言った。
「さっきの子?」ニシャが訊いた。
「うん」

 えー? と新條が不満げに叫んだ。でも、身体は振り向いていた。きっと三人皆が同じに思ったのだ。僕たちは、初めてマラソン大会らしく、走った。

 彼はまだうずくまっていた。でも、僕たちの足音に気付いて上げた顔が、ホラー映画で襲われる寸前の女優みたいに歪んで凍り付いた。少し、ん? と思ったけれど、僕は近寄って、彼の肩に手を置いた。彼は、叫んだ。

「だい、大丈夫、大丈夫、だからっ!」
「どう見ても大丈夫じゃないよ。ここからなら先生のいる中間ポイントまで近いし、手を貸すよ」
「い、いら、いらない、いらないから、行って!」

 僕たち三人は視線を交わした。新條が、行っていいって言ってんだから、良いんじゃないの、と小声で言った。毛野は、何度か頷いた。頷いて、ぐっと、また身体を固めた。大丈夫じゃないよねえ、とニシャが言った。僕は、おぶって連れて行くか、と決意した。

「立てるか?」
「いや、ほんと、ほんとに、いらないから……」

 顔を顰める毛野の腕を取り、自分にまわさせ、そして、僕は彼を引っ張り上げるように立ち上がった。その瞬間、ああぅっ、と彼の声が山林に響いた。それは、口以外の部分から発する不吉な破裂音を伴っていた。

「ああ、ああ、ああ……ああ」

 みるみる毛野の身体から力が抜けていった。そして、僕はようやく、彼が苦しんでいたのが、便意のせいだったということを、理解した。液状のものが、不快なニオイを漂わせながら、濃いグレーのジャージのパンツの尻の部分に滲んでいった。

 僕は、彼の腕を放した。彼は、今にも泣きそうな顔で、だから、だから、行けって言ったのに、行けって言ったのに、と叫んだ。ごめん、という言葉が口をついた。新條は苦い表情をして顔を背けていた。僕たちが固まっていると、後ろから、何人かの生徒たちがやってきた。僕には何をしていいかわからなかった。

 でも、ニシャが動いた。生徒たちから彼の失態が見えない角度に立ち、そして毛野の頭をぎゅっと胸に抱いた。生徒たちは、訝しげにそれを見ていたけれど、立ち止まらずに過ぎて行った。ニシャは、それを確認して、彼を離した。そして、にっこり微笑んだ。

「着替えようか?」ニシャが毛野にそう言った。
「え?」毛野が放心した顔をした。
「着替えなんて、ないよ」と僕が言った。

 ニシャがおもむろに自分のジャージのパンツのヒモを解き、そして、するっとそれを脱いだ。

「短パン履いてきたから。君は細くて小柄だから、わたしのでも大丈夫」

 毛野はニシャの顔をずっとうつろに見ていた。ニシャが、じゃあ、ヒトシ、望都子ちゃん、上のジャージ脱いで、囲い作って、と指示した。また、えー? と新條が不快そうな声を上げたけれど、ニシャが、お願い、と微笑むと、仕方無さそうに、新條はジャージを脱いだ。

 僕と新條が目隠し役をやっている間、ニシャが、毛野のジャージを下ろし、そのジャージと首に巻いていたタオルで便を拭き取り、そして、下着を下ろした。放心したままの毛野の下腹部をつい見てしまった新條が慌てて顔を逸らした。

 ニシャは微笑んだまま、ごめんね、恥ずかしい思いさせたね、ごめんね、と毛野の身体を拭いた。そして、自分のジャージを彼にはかせて、もう一度、ごめんね、と言うと何もなかったかのように彼に背を向けて歩き始めた。僕と新條もその後を追った。
 
 僕は何度か振り返った。毛野は、ほんの少し呆然と立ちすくんでいたけれど、うあ、うあああ、と叫びながら駆け出し、そして、僕たちを追い越していった。

 新條が、ずっと、ニシャの顔を見ていた。そして、僕たちは、ゴールまで、無言で歩いた。

 ゴールした後、ニシャは、歩くのってしんどいねー、あちこち痛くなるし、走った方が楽だった、と楽しそうに言ってどこかに行った。食堂で、僕が痛む足をさすりながら、スポーツドリンクを飲んでいると、新條が近寄って来て、こう言った。

「ほんとに、女神さまだ、アレ」
「あ?」

 女神さまだった、ともう一度言うと、新條は離れていった。

 僕に、その日のことを深く考える体力的余裕は無かった。毛野がどうなったかなんて知らない。ただなんとか家に辿りついて、泥のように眠るのが、僕に出来る精一杯だった。


<#33終、#34へ続く>


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