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ありがとう習慣10万回で思うこと【人生の見え方がどう変わったか】

ついに2月頃開始した「ありがとう習慣」が10万回を突破しました!めでたい!
ということで「8ヶ月間ありがとうを言い続けて、どんな変化があったか」をまとめてみました!

【結論】
疑いながら「ありがとう」を10万回言ってみたら世界の見え方(とそれに伴う体感)がガラリと変わってビックリ。

この記事を読むと「ありがとう習慣って本当に効果あるのかな? なら、やってみようかな」と思えるかもしれません。
僕は一生続けていくつもりです。こんないいことやめられるはずがありませんので〜)

◆やったこと
毎朝5分、太陽を浴びつつ「ありがとう」を声に出して言うだけ(スキマ時間も口ぐせのように)。別に気持ちを込めたりしないで機械的でOK。

◆たとえば自分の住んでる町を眺めたとき、どう思うか?
4000回のときも同様な趣旨で記事を書いていましたので、
比較するのに都合が良さそうです。

ありがとう習慣開始前、4000回のとき、10万回のとき
の差を並べて比較してみます。

1ヶ月ほど続けて4000回に達する以前は
町を眺めても特段の感想はありません。
あぁ、いつも通りの町だな、という感じ。
疲れてるときだったら「あー、自然の中でのんびりしたい」とか思うのかもしれません。
気持ちが病み気味のときだったら、例えば楽しそうに笑っている人を見ただけで、かえって気持ちがグレーになったりしていたことがあったでしょう。
僕は生来、陰キャ系で、よく言えば穏やか、悪く言えばうつっぽくなりがちな性格です。
なので以前の僕だったら、こんな感じになることが珍しくなかった気がします。

さて4000回のときは同じ町を見て、どう思ったかというと。

お、お巡りさんが今日も町を見守ってくれてるなぁ、ありがたい。おじいちゃんが子供に話しかけてるなぁ。微笑ましい。家族連れがおててを繋いで歩いてて、ほのぼのするなぁ。ひざしがあったかくて、過ごしやすいなぁ。それに今日も空気が流れてて、ありがたいなぁ。

と、こんな感じで町を眺めるようになっています。
(もちろん、いつでもってわけではないのですが特段、調子が悪かったりしない限りは)
これは無理矢理、感謝を見出そうとしているわけではなく、あるとき、そういうありがたみに体感として気づいてしまって、自然にそう思えるようになっています。

では10万回を迎えた今は同じ町を見て、どう思うか?

例えば、つい最近、朝のありがとうをベランダで行った後に町を見たときは、こんな思いが迫ってきました。

まず空に太陽が輝いています。
すごいなぁ。あれは8分前の太陽の光なんだよなぁ。それが、はるばる宇宙をわたって、この地球に届いているんだなぁ。よくぞここまで届いてくれました。ありがたいなぁ。

そして通りには人が歩いています。
すごいなぁ。あれも0.00000数秒前の人の姿がこうして光が目に届けてくれて見えてるんだなぁ。

ということは今、こうして俺自身が見えてる視野自体は、過去の幻みたいなものとも言えるけど、0.000000数秒前に、あの通りのあの場所であの人が「よっしゃ、駅に向かうぞ」と、そう思って一歩また一歩と前に足をすすめているわけだ。

つまり、あの人の「前に進むぞという意志」がこうして目に届いて見えてるわけだ。それって、マジですごいなぁ。

しかも、あの人の体の中で今、あの人の駅に向かいたいという意志を叶えるべく身体中の細胞たちが総動員で働いてくれているわけだ。
だからこそ、あの人は駅に向かうことができてるわけだ。すごいなぁ、ドラマだなぁ。ありがたいなぁ。身体って本当にすごいなぁ。

しかも、そんな感じで、あっちもこっちも人が行き交ってるし、車は車でボディーがバラバラに分解したりしないで、今日も車としてしっかり走ってくれてるし、街路樹は酸素を供給しながら街路樹として存在してくれてるし、その見え姿は今もこうして光が運んできてくれてるし、ありがたいなぁ。本当にありがたい。
もうこの世はありがたいことしかないなぁ。しあわせ。

と、まぁ、こんなことを自然に思ってしまうわけです。
笑っちゃいますよねwww
変人と呼ばれたとしても異論の挟みようもありません。
我ながら、そう思います。
でも、これ別に盛ってるわけではなくて本当なんです。
ただ町を見るだけで、これだけ「ありがたい」って思えるとしたら、なかなか不幸にならないだろうって思いませんか?
そうなんです。
なんか、もう以前のようなグレーだったり、ダークな気持ちになることってこの先の人生であるんだろうかと思うくらいの心境なんです。

「えーなにそれ、無理矢理そう思い込もうとしてるの?」
と疑問を抱く方もいるかもしれませんが、
これは明確にそうではないと言っておきます。

むしろ機械的に「ありがとう」と言っているからこそ
「なにがありがたいんだろうなぁ。意味わからんなぁ。こういうことかなぁ」
とか、ぼんやり思っているうちに
あるとき歯車がガキーンとはまったかのように
自分の中で気づいてしまうのです。
ありがたみが、ぜんぜん見えていなかったことに。

「なんでもないようなことが幸せだったと思う〜」
って有名な歌詞がありますけど、
それは知識としては僕も以前から知っていました。
そうだね、なんでもないようなこと幸せだろうね、みたいな感じで頭で理解はしていて、それで充分分かった気でいました。
でも体感としてはぜんぜん分かっていなかった、
ということに電撃的に気づいてしまうのです。

これは、僕にとって人生の革命でした。
こんなことってあるんだと目から鱗でした。
「もう大体、この先の人生も、こういう調子で生きていくのかなぁ」なんて思ったこともありましたが、
そんなことは全然ありませんでした。
突如、目が開いてしまうことがあるんだなと自分自身に感激しました。

だから、この習慣はもう絶対に一生続けようと思うわけです。

もちろんいつもいつもこう思ってるわけじゃないですよ。
なんなら「ありがとう習慣」始める前とさほど変わらない心境で町をただ見る時だってまったく無いわけじゃありません。
仕事中とか、モードが切り替わっている時も、いちいちこういうことは思いません。

とはいえ、なんていうんでしょう。基礎代謝って言葉がありますけど、いわば「基礎感謝」が高まっているので、いちいち細かいことでイラだったり、致命的なダメージを被ったりすることはなくなってしまったんですね。
生きていく上での感謝の土台が強固になったので、それらがささいなことに思えてしまうんですね。

ニュースとか、もうほとんど見ていません。
戦争とか色々、おかしな揉め事が起きていますけど、なんであんなことしてるんだろうー、楽しいのかなって思います。僕自身はそういうことにいちいち反発するより、自分がこうして世の中にただ感謝しながら気分良く生きる、を実践することが僕なりの平和活動かなぁと思って生きています。

今後も続けます。定期的に心境の変化を綴っていきたいと思います。お読みいただき、ありがとうございました。

※ありがとう習慣の具体的効果や、その変遷を知りたい方は、こちらの過去記事やマガジンの方をどうぞ。
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