見出し画像

暇の先にあるのは、思い出の追求

この記事は2020年夏?発売予定の書籍「暇の研究マガジン」から8本目の記事です。

本記事は元々、本書の「おわりに」に相当するものなので、無料公開とする。過去記事を読みたいかたは、マガジンで購読するとお得です。


本書を手に取った読者の方は、この本に何を期待しただろうか。

暇とかいいなあ。自分は時間貧乏だよ。という人もいれば、まさに自分も暇で困っている!という僕と同じような状態の人もいるだろう。

本書は準富裕層以上のアッパー層、言い換えると経済的に比較的余裕がある人たちの暇について考察してきた。

一方で、ベーシックインカムの導入の議論も見かけており、準富裕層以上ではなくとも、ベーシックインカム導入で最低限の生活費が保証される未来がくる可能性はゼロではない。

お金のために働く必要がなくなった時代において、人は人生という時間を何に使っていくのだろうか。

そういった意味においても、本書は「暇になった人の活動サイクル」を紹介する事例として、参考になるのではないかと思う。

あえて「おわりに」から読む人もいると思うので、軽く本書の要約をすると、ある程度経済的余裕がある準富裕層(金融資産5,000万円以上)の労働現役世代のアッパー層は、まずは高級グルメ、(男性であれば)女性関係、高級賃貸といった「消費活動(場合によっては投資活動)」を楽しむ。

ただ、消費活動だけでは飽きてくるので、パーソナルトレーニングなどでフィジカルトレーニングをしたり、コーチングを受けてメンタルトレーニングをしたり、アートを通して感性を磨くという「自分探し活動」にハマっていくようになる。

それでも飽き足らず、自分のためだけに消費したり自分探しをしているだけでは幸福度に限界があるので、他人の役に立つ活動を始める。

具体例として、SNSを活用したりエンジェル投資家になる、そしてまた働き始めるというサイクルを辿る。

この400文字程度の話を具体的に掘り下げたのが本書である。

なぜそのような各活動をするようになるのかという心理を、僕自身の実体験を元に紹介している。

暇がもたらした副産物


暇とは、地獄である。

そんな内容のツイートをしたら、結構共感されたような気がする。

YouTuberのイケダハヤト氏の動画にも引用されていた。

暇という地獄は、体感した者しかわからない。ある程度日々やることを誰かに決められていた方が、人は幸せなのかもしれない。

お金のために働く必要がない暇な状態とは、日々の真っ白なスケジュールを全て自分の意思決定で埋めていくことを意味する。

それを羨ましく感じる人も多いだろう。

しかし、案外それは大変なことで、自己管理能力が高く、自分を律することができないと、すぐだらけてしまうこともある。

僕自身も、二度寝が大好きで、特に冬の午前中はよくベッドの中でぬくぬくとしている。

しかし、暇によって多くの学びを得ることができたとも思っている。

僕自身は2011年に独立して以降、局所的に忙しい時期はあったものの、基本的には同年代のほとんどのビジネスマンと比べて、暇な時間を過ごしてきた自負がある。

ある意味キャッシュフロー組の中では日本でも屈指の暇人であり、何か一つ自己アピールをしろと言われたら「時間だけは、十二分にある」と回答する。

本書も実際に編集者の箕輪厚介から2019年12月18日に「書いて!」と言われて「わかった!」と言って2020年1月11日に一通り書き終えた。

このスピード感も、暇がなせる業であり、暇の副産物といえる。

特に輪をかけて暇になったのは2017年7月以降のここ2年半で、クライアントワークとしてかなり時間を割いていた東京カレンダーWEBのプロデューサーを退任したので、その後もいくつかコンサルティングのクライアントワークはあったものの、徐々に減らしていき、自社事業のみで生計も立てられるようになり、結果的に労働時間が減り、暇になった。

一般的には35歳といえば働き盛りの年代であり、周囲のビジネスマンと比べて、自分のこの暇さ加減はやばすぎるのではないかと不安になることも正直何度もあった。

ただ、自分の生き方として、会社で雇われの身として粉骨砕身してもすぐに折れてしまうと思うし、出世できるキャラクターでもない。

IPOを目指そうという野望も20代の時に捨てたし、そもそも人を雇ってやりたい事業を思いつかない。

野望がなさすぎて1週間の労働時間は10時間以下のことも多い。定年退職した人並みに労働時間が少ないと思うが、その代わりに投資の勉強やコーチングなどの習い事に時間を割き、結果としてビジネスマンとしてのトータル的な戦闘力は高められたのではないかと思う。

労働(OJTとも呼ぶ)によってのみ人は成長する。労働こそが成長への最短ルートだ。と主張するビジネスマンやビジネス書も少なくないが、僕は必ずしもそうとは思わない。

誰かにやらされた労働よりも、自発的に課題を設定して何かに取り組む方が、吸収力が高く、結果的に自分の身になることが多いのではないか。

暇な状態というのは誰かに何かを強制される環境にないため、全て自分で何をすべきかを意思決定する必要がある。

なぜをこれをした方が良いのかというロジックを自分で腹落ちするまで突き詰めて考えて、実践していく。そのプロセスは尊いものであり、自主性が養われる。

会社員の多くに自主性はあるだろうか?

自主性を要求されない環境であるがゆえに、定年退職後に時間配分を全て自分で決めて良いと言われると、上手く時間を使うことができない人が多いのではないか。

組織に属することで、構造的に誰かに言われたことをやることが習慣化してしまい、自分で課題設定をするスキルがあまり養われなくなってしまう。

そういうスキルを本来持っていたとしても、失われていってしまう可能性も高い。

目の前に仕事が山積みになっていて、それを夢中でこなし続けた場合、年収が増え、地位が上がっていくことはあっても、健康は二の次で、寿命を縮めている場合もあるだろう。

僕が思うに、ハードワーカーの場合、文字通り多くの時間を仕事に回してしまうため、収入は増えていっても、仕事以外の人間としての活動がおろそかになってしまうのではないかと感じている。

僕のように死ぬほど暇な時間が余っていたり、第一線で働く忙しいビジネスパーソンであっても、ハードワークに美徳を置くのではなく、一定は自分探し活動に時間を充てることによって、長期的視点で見た時に、人間としての総合値を上げることに目が向かっていた方が、人生100年時代においては望ましいのではないか。

ハードワークの結果、健康を害して、しばらく働けなくなってしまうなど、全く関心できない。

僕は暇になったことで定年退職後のような日々を33歳から35歳で過ごすことによって、定年退職後の生活を先取りして体験し、その際の課題と対抗策をあらかじめ練る機会を得ることができたともいえる。

ある意味、同年代の中では最先端の活動ともいえよう。笑。

「セミリタイア」や本書でも紹介した「FIRE」という概念を耳にする機会が増えているが、日本においては昭和的価値観が根強く、定年まで勤めてその後自由な時間を得て余生を過ごすという発想がまだまだ多いように思える。

セミリタイア状態を先に経験しておくことで、全く労働に携わらないことは耐え難い苦痛であることを体感したし、自分の人生の辞書に「定年退職」は存在しないし、歳をとって投下できる時間が少なくとも、何かしらの労働は続けたいなという価値観を形成することができた。

稼ぐ必要が全くない状態になっても、何かしらの労働を通して、他者の役に立つことを続けていきたい。

僕はnoteで記事を書いて売ることが現時点での主力ビジネスだが、noteがよく売れたり、読者から感想をもらうことは単純に嬉しいと感じるし、また記事を書こうというモチベーションにもなるのだ。

2年半ほどの相当に暇な時間を過ごすことによって、自主性をより養えたことと、自分探し活動によって自らの器を拡げること、人生100年時代における労働と時間に対する価値観を形成できたことが、僕が暇によって得られた副産物である。

暇の先にあるのは、思い出の追求


本書の執筆を始める少し前に、西麻布の和食屋で本書でいう富裕層以上クラスの男性たちと会食する機会があった。

知人である上場企業の経営者に「何か欲しいものありますか?」と聞いたところ「思い出」というはにかんだ回答が返ってきた。

画像1

富裕層以上になると、特に何か欲しいモノがあるという話にはあまりならない。それなりの価格のモノであればすぐに買えてしまうので、物欲がさほど強くないのだ。

「プライベートジェットが欲しくてたまらない!全然お金が足りない!」という人は稀であり、プライベートジェットを欲しがる欲を持つ人自体が希少なように思える。

僕ももちろん、プライベートジェットなど欲しくない。超富裕層ほどの資産があっても、プライベートジェットなど無駄じゃないかと感じてしまう。別荘も持ちたいと思わない。固定費の無駄だ。

しかし「思い出が欲しい」というのは、なかなか深い回答だなと思えた。

多くの人は何のために働いて、それなりに経済的な自由を得て、自由な時間も得ようとしているのか。

しかしそのような状態になっても、僕のように満たされない日々を過ごし、暇に苦しむこともある。

振り返ってみると、仕事でもがきあがいた日々や、なんらかの成果を出して手応えを得た日も、自分のミスで何かを失った日も、振り返ってみれば、すべて忘れ難い思い出である。

そういう風に思い出してネタにできる「思い出」の多さやその充実が、人生の価値なのではないかと思うようになった。

だからこそ、良い出来事でも悪い出来事でも、当時の感情を極力思い出せるようにになるネタになる思い出をたくさん作っていけば良いのではないか。

そうした思い出こそが、未来から振り返った時に、お金よりよほど貴重な財産となる。

この「暇の研究」の執筆も、ある意味というか、大方においては僕にとっては「思い出づくり」の一環である。

読者の役に立ちたいという他人活動の意識もあるが、思い出づくりの価値が一番大きいと感じる。

箕輪に言われて書いたけど、ただ単に暇だった日々も、書籍としてまとめてアウトプットできるものなんだな。という思い出になる。

本は売れた方が嬉しいけど、売れなくても最悪思い出になるなと思って、書いた。箕輪以外の編集者に頼まれても、書かなかったと思う。僕は単に箕輪との思い出のネタ作りに本書を書いただけなのだ。

「思い出というリターン」は苦しみながらも本の執筆を完了した満足感で得られるかもしれない。

むしろ、売れなかった方が、将来的にはネタになって思い出としての価値は高いかもしれない。笑。

かなり赤裸々な実体験を書いた側面もあるが、僕は今後も暇と強く向き合い続ける必要があるだろう。

本書の執筆を終えても、「暇の研究」が終わることはないのだ。本書の執筆期間は局所的に暇ではなかったが、執筆を終えるとまた「暇という日常」が到来する。(noteとして公開した2020年4月は、コロナによる自粛期間につき、皆さんと同様に相当ヒマだ。笑)

本書を読んだ読者の皆さんは、どのようにして暇な時間を過ごしているのか。twitterで「#暇研究」などとハッシュタグをつけてツイートしてみて欲しい。気が向いたら、僕はそのハッシュタグを覗いてみようと思う。

2020年1月11日
代官山蔦屋Anjinにて
梅木雄平


◆カバー画像制作:箕輪編集室

ここから先は

0字
このマガジンを読むと、暇についての理解が深まります。

2020年夏出版予定? 箕輪厚介編集の梅木雄平の書籍「暇の研究」に紐づく、マガジンです

ありがとうございます!サポートは希少なのでとても嬉しいです^^