ミュージシャンにあこがれたフリーターの後悔と悲惨な末路
亮二さん(仮名:30歳)
「夢という言葉にだまされました」
僕は中学校の頃にギターを始めて音楽やバンド演奏の楽しさを知りました。そして、高校2年生くらいの頃には
音楽で食っていきたい
そう考えるようになりました。メジャーデビューして、東京ドームや武道館を満員にして歴史に名を残す。そんな夢を持つようになりました。
高校3年生の頃には同じ高校の同級生と4人組のバンドを結成し、僕はギターを担当しました。週に1回はライブハウスのステージに立つようになり、地元では知名度も高く、女の子にもすごくモテましたよ。
高3になると同級生は進路の話が出てきますよね。大学に行くやつ、専門学校に行くやつ、就職するやつ。そいつらに対してこう感じるようになりました。
(夢のないやつらだ。つまらない人生を送って満足なのか?)
僕はそいつらをどこか下に見ていたんですね。僕は両親や先生に進路を聞かれるとこう答えていました。
「バンドで食っていく」
当然、両親は猛反対しましたし、担任の先生も心配していました。でも、会社員や組織の末端として働くつまらない人生を僕は送りたくありませんでした。
バンドメンバーとは「俺たちは音楽で成功するんだ」と夢を語り合い、そのまま進学も就職も決めない状態で高校を卒業したんです。
卒業後は近所のレコード屋でバイトを始めました。そこの店長からは
「夢を追うなんて素敵じゃん。応援するよ」
そう言ってもらいました。レコード屋でバイトしながら音楽の夢を追う自分に酔っていましたね。しかし、思い返してみるとこの頃から気になる点はあったんです。
なんと、このレコード屋の時給は500円でした。
最低賃金もクソもないですよね。違法ですらあります。しかし、当時の僕は本当に社会の仕組みとか知らずに当時は『最低賃金』という言葉すら分かっていなかったんです。
さらに高校卒業後はライブの集客力がガクンと落ちました。理由は簡単です。ライブに来てくれていたのは、ほとんどが高校の同級生だったのですが、同級生が進学や就職で地元を離れていったことが原因でした。
お客さんはライブのたびに減り続け、ギャラはおろかチケットのノルマをこなすことも厳しくなってきて、自分達のバイト代をノルマに当てて、どうにかライブをさせてもらうような状態が続きました。
こんな状態だったので、高校を卒業して1年もしないうちにメンバーの間でも意識の差が生まれてきました。ある日、突然ドラム担当がこう言いだしたんです。
「俺は予備校に通って大学に行くわ。人生をやり直す」
引きとめるメンバーの声も聞かずにドラムは脱退しました。今までチケットのノルマを4人で分担していましたが、1人が抜けることで残った3人が分担する金額もアップし、さらに負担が大きくなります。
まあ、ドラムが脱退する前から、ライブをする気力もなくなってきていた時期でした。バンドの練習で集まることすら減っていき、成人式のタイミングでバンドは解散しました。
その後、しばらく実家に住みながらレコード店のバイトを続けていたけど、両親からも「ちゃんとしろ」と言われる機会が増えて次第に実家にもいづらくなり、実家を出ました。
そして、22歳の春のことでした。ふと気づいたんです。自分がとんでもない人生を送っていたことに。
俺が夢を追っていた間に同級生は大学を卒業したんだ
僕が『夢を追う』などとダラダラと人生の時間をムダにしていた4年の間に同級生はコツコツと大学や専門学校を卒業したり、資格を取得したり、未来に向かって堅実に努力をしていたということに気づいたんです。
僕には・・・何もない
あわてて、本を読んで勉強した時、初めて自分が働いていたレコード店の時給が法に触れるほど安いということを知りました。
「夢を追うなんて素敵」などと言っていた店長に僕は安く利用されていただけなんです。
僕は就職活動をして正社員として働くために採用試験を20社ほど受けまくりましたが全て落とされました。フリーターの期間がネックで就職試験で毎回聞かれるんです。
悪徳っぽい訪問販売の会社とか汚くて誰もしたがらないような仕事とかならあったのですが、ダラダラと時間を過ごしてきた僕にまともな就職先なんてないんです。その後もカラオケ店などでフリーターとして働きました。
26歳くらいになると同級生が堅実に結婚して家庭を築いていくのを見て無力感を感じるようになりました。同年代の女性はフリーターの僕には見向きもしてくれません。
それからは、工場の夜勤のバイトをしています。給料は12万円で社会保険がなく年金も払っていませんし、保険証すら持っていませんでした。
「このまま俺の人生は終わるのかな?」
そんな不安を抱えながら毎日を過ごしていますよ。夢も希望もありませんね。