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学校をアップデートするためのスケッチ(1)〜あなたは理系?文系?

今年の3月に、突然全国一斉に学校が休校された。これまで学校がなくなることなどイメージできたであろうか?戦後新しい学制になって以来、仕組みも制度も教育方針もほとんど変化しないままここまで来てしまった。社会の変化が大きく学校のあり方そのものが見直されるべき時が来ている、しかし新型コロナウィルス騒ぎ(僕は危機ではなく騒ぎと言っている)によって、その議論も飛び越えて、学校の存在意義について問われている。

リモートワークが叫ばれ、学校にもオンライン授業が導入、社会全体のオンライン化を推し進める動きが活発だ、その流れの中、学校不要論を唱える人も現れている。不要なのか必要なのかというのは、すぐには答えが出ない大問題だ。僕は人生の一時期、教師になろうと必死になって学んでいた時期があり、実際に教員免許も持っていることもあって、他人事で、やりすごすことができません。そこで原点に戻って、自分にとって学校とはどうだったのか思い出して見て、学校の存在意義について書いてみることにした。

今からもう30年ほど前の高校生だった。高校1年の秋にまず決めなければいけない大事なことの一つに理系か文系かを決めるということがあった。2年生になると理系文系に別れて科目を選択し、授業が組まれる。まだ中学生気分が抜けきらない1年の秋に自分の将来を左右するような大事を本当に決められるんだろうか?クラスメートと「お前、どうする?」「あいつは理系らしいよ」とか色々な噂や話に持ちきりなっていた。

これは僕にとってなかなか悩ましいことだった。僕は基本的に歴史とか文学とか哲学が好きで小難しい本を部屋にこもって読むのが結構好きだったこともあり、本当は文系に行くべきかなというのがあった。外国にも行ってみたいということもあった。しかしなぜか成績は理系科目の方がよく、どうみても理系に進んだ方が進学には有利だったのだ。

ほとんどの教師がまるで一生を決める一大事なような論調でこのことの重要性を強調する。みんなもなんとなくそういう空気を感じて真剣に考える。そういう何か決められたレールみたいなのが急に自分たちの将来に引かれているような気がして僕は突然このテーマから逃げ出したくなったことをよく覚えている。周りがそんな空気に染まっている中で、

「そんなこと、今決められるわけないだろ」とか口が裂けても言えなかった。

ところが教師の中にまるでそんな僕の気持ちを既に知っているかのような人が一人だけいた。それは現代文の教師だったH先生だ。先生の言い分ははっきりしていた。

「君らが、大人になる頃には、もう理系だ文系だなど、そんな狭い了見、通用せん時代になっとりますわー。じゃからあんまり気にせんでもええということですな、人生どうにでもなります」(岡山弁)

この時の言葉は、選択に行き詰まっていた僕の気持ちをすごく楽にしてくれた。そして高校の教師という狭い世界の中でも社会というもの複雑さとその先にある未来をきちんと見抜いている人が、30年前の岡山の一介の県立高校には、確かにいたのだ。これは当時の社会が紛れもなく健全だっという事実を示している。

この言葉によって僕は迷わず、理系に進んだ。ちょっと聞くと先生の言葉と矛盾しているかのように聞こえるかもしれない、しかし僕の中では腑に落ちる何かがあったのだ。

僕の中でこういう思考が働いた。文系は自分でどんどん勉強できる。しかし理系は、設備もお金もかかるので自分では絶対にできない、ならば理系進学だろう。つまり、自分の中で専門などは、人生の中で必要なタイミングで必要な時に選べばいいのだし、そもそも専門性など必要ない時代がやってくるかもしれない。要は、好きなことを思う存分にやるためには、選択肢を多く持っていた方が有利だということ。僕が、理系を選んだのは、最終的に選択肢を多く残すためだったのだ。

そしてこの結論は、30年たった今、本当に間違っていなかったと実感している。その後、まさに時代は、理系文系など関係なく、社会も人類もテクノロジーの進化に飲み込まれようとしている。それに対抗して自分の軸を保って生きて行くには、理系的なセンスと哲学や文学、歴史などを通じて人間としての本質を見抜く力の両方が必要なのだ。

さて、話を元に戻そう。学校の存在意義はと問われれば、まさにこの現代文の教師のような存在だ。子供たちにとって、親以外の大人と触れ合い、兄弟以外の同年輩の子供との触れ合いが、人生に大きな影響を与える場面は、長い長い学校生活の中でほんの一瞬、わずかな場面だ。しかしその大切な場面は、いつどこで訪れるかわからない、それは一人一人全く違う、僕のように文理の選択かもしれない、または部活の一場面かもしれない、親が突然の事故で亡くなるかもしれない、彼女や彼氏に振られた時かもしれない、しかし、そのためには常に自分の周りに自分と異なる多様な人がいる、そういう環境が用意されていることが必要かつ十分な条件であることは疑いないことだろう。その場面をきっかけにその子は大きな成長へと一歩前へ踏み出すことができる。僕はそう思う。

いじめや生活格差など問題が増え、また大量に同じ内容を教え込むことの弊害として、自分で考えることができない子供が増えているという問題がある。これまでのような学校のあり方は、難しいかもしれない、しかし人間はどこまでも社会的生物であり、そこを無視して、学校不要か必要かは決められない、もう少し考え続ける必要があるなと思う。

では変えるとしたら、どこを変えていけばいいのだろうそれは次回考えて見たいと思う。







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