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今回は山月記から虎要素を抜いても話が通るのでは?むしろこれは虎がない方が自然なのでは…?とそう思ったため記事にしています。

2024/08/19追記: サムネイルに「あまおと」さんのフォトギャラリーを使わせていただきました!ありがとうございます!


注意

  • もしかしたらネットにはすでにこのような内容の話があるかも知れませんが、これは99.99%オリジナルな話だと断言します。0.01%は似た内容を見た可能性もありますが、基本的にインプットは山月記本文のみかと思います。

  • 表記できない漢字は現代での漢字に変更している場合があります。袁惨とか

  • こういう記事は初めてですので、読みにくい点、理解しにくい構造になっているかもしれません。ご了承ください。

  • 別にこの結論が正しい、正解だ、なんて思ってないので、意見、反論等々ありましたらコメント等にて教えていただけると嬉しいです。できれば返信したいと思います。


本文

青空文庫にあったのでもし内容を知りたい方は以下から。短いのですぐ読めると思います。一応自分でも要点だけまとめます。山月記を読んだことある、覚えているという人は「虎とはなんだったのか」まで飛んでください。

前提知識(要点)

ここでは山月記の要点と登場人物等の概略のみ説明します。ちなみに中国が舞台の話です。

登場人物

  • 李徴

    • 博学才穎(学識豊富で才能のある)人物

    • 若い頃から虎榜(進士の試験の合格者を発表する掲示板*1)に名を連ねていた

    • 性格は狷介(自分の意志をまげず人と和合しないこと)で人付き合いは苦手

  • 袁惨

    • 監察御史(官吏を監察し地方を巡察して行政を監視した官*2)

    • 温和な性格で峻峭な性格の李徴とは衝突せず親しかった。

*1: コトバンク
*2: goo辞書

物語の概略(要約)

*私個人の解釈を多く含むので注意。また分かりやすやを優先して、言葉の意味を犠牲にして、現代的な表現に変換している箇所があるかも知れません。2500文字くらいです。「*1」などの注釈は後に使うので無視してください。


李徴りちょうは自分の意思を曲げず人と和合しない性格で、若くして科挙(役人の試験)に合格し官吏(役人)へなったが、しばらくの後に、(李徴が言うには)「俗悪な大官(上司)に屈したくは無い」と、故郷である虢略かくりゃくという地に戻り、ただひたすらに詩作にふけっていた。しかし、詩家としての名は上がらず生活が苦しくなった。そして妻子の衣食のため、はたまた己の才能に半ば絶望したため、官吏に戻ろうと東へおもむいた。しかしかつての同輩ははるかに高い地位につき、李徴はかつて敵でもなかった同輩の命に従うことになった。これは李徴の自尊心を大きく傷つけた。

一年後、李徴は公用で旅に出て、如水という地に泊まった夜に顔色を変えて起き上がり、わけのわからぬことを叫びながら宿を飛び出し、行方をくらませた。

その一年後、監察御史(官吏を監察し地方を巡察して行政を監視した官)袁惨《えんさん》は勅命(命令)に従って、嶺南という地に向かっていた。その途中で商於の地に泊まり、翌朝暗いうちに出発しようとすると、「ここから先の道は人喰い虎が出るから白昼でなければ通れない」と言われた*1。しかし、お供も多いからと、無視してまだ月光が残る森の中へと進む。

しばらくすると草むらの中から一匹の猛虎が飛び出し、あわや袁惨に襲い掛かりそうになった*2。虎は飛びかかろうとした寸前に身を翻し、元の草むらに隠れた。草むらから「危ないところだった」と聞こえた。しかし、袁惨はその声に聞き覚えがあり、「その声は、我が友、李徴子ではないかと?」と草むらに声をかけた。

草むらからはしばらく忍び泣きかと思われる声が漏れていたが、やっと「いかにも、自分は李徴である」と返答があった。袁惨は虎への恐怖を忘れ、草むらに近付き、何故草むらから出てこないのかと問うた。李徴は、自分は今や異形の身となっていて*3、もし姿を見せれば必ず君を怖がらすだろう、しかしあまりに懐かしいから、どうかこの身を隠したまま話をしてくれないだろうか、と言った。袁惨はこの怪異をごく自然に受け入れ、都の噂だとか袁惨の今の地位、それに対する李徴の祝辞などを話し終えたのち、袁惨は李徴がどのようにして今の姿へとなってしまったのかを聞いた。

李徴は一年前に如水で泊まった際の話を始めた。一睡してからふと眼を覚ますと外から誰かに呼ばれたような気がするのだ。それに応じて外に出ると、声の主は見つからず、その声を追って無我夢中で闇の中を駆けた。いつしか、山の中に入り、気付いた時には左右の手で地を掴み、身体中には力がみなぎり、手先や肘には毛が生えていた。*4虎になったのだ。

初めは李徴も信じられなかった。すぐに死を考えた。しかし、目の前に兎が一匹通り過ぎた。*5その瞬間人間の自分はその身から姿を消し、意識が戻った時には自分の口は兎の血で濡れていた。それ以来今までにどんな所業をしてきたか、容易に話せることではなかった。

しかし、1日のうち数時間は必ず人間の心が帰ってくる。その際は人語も操れ、複雑な思考もできるし、経書(教えを述べた書)を誦じることもできる。しかし、人間である心で、虎としての残虐な行為を見るときが最も情けなく、恐ろしく、憤ろしい。それに人間である数時間も日に日に短くなっている。今までは、「どうして虎になったのだろう」と考えていたのが、「どうして人間だったのだろう」と考えている。このままでは、どんどん人間の心は獣としての心に埋もれて消えて、いつしか人間だったことを忘れ去り、一匹の虎として、今日のように君(袁惨)と出会ってもそれに気づかずに喰ってしまうかも知れない。

こんなことを考えていると、己の中の人間のこころがすっかり無くなってしまえば、こんな葛藤をすることなく、幸せになれのかと考えてしまう。しかし己の中の人間のこころはそれを恐ろしく、悲しく、切なく思っている。

そこで李徴は袁惨に、己が人間である内に、頼みたいことがあると言った。

李徴は元々、詩人として名を残すつもりでいた。しかし数百遍もの詩を作っても名は上がらず、もはや遺稿の所在もわからない。そこで今でも覚えているものがいくつかある。それを袁惨には書き留めていて欲しい。そういう願いだった。何もこれで一人前の詩人面をしたい訳ではなく、自分が生涯をかけ、固執したものを一部も後世に伝えないのでは死んでも死にきれない、と言うことだった。

袁惨は部下に李徴のおよそ三十遍、作者の才の非凡を感じさせる詩を書きとらせた。袁惨は感嘆しながらもどこか、非常に微妙な点において欠けるものがあるのでは、と感じていた。

すると李徴は「この虎の中にまだ李徴が生きているしるしに」と詩を詠んだ。これを袁惨は部下に書きとらせる。

偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高
我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪
此夕渓山対明月 不成長嘯但成

中島敦 山月記 青空文庫

李徴は詠み終わると、虎になった理由に覚えがあると語り始めた。

私は人間であった時、自分は詩によって名を残そうなどと考えながら進んで師に就いたり、詩友と切磋琢磨することなどをしてこなかった。自分が珠(立派なもの)でないことを恐れるが故に人と遠ざかり、自身の臆病な自尊心を飼い太らせ、そのせいで自分の外形を、その尊大(ひどく偉そうに人を見下した態度)な自尊心に相応しいものに変えてしまった。

その後、人に戻れぬ悲しみを一通り漏らしたのち、虎に戻ってしまう時が来たといい、最後にもう一つだけ頼みがあると袁惨に言ってきた。

妻子のことだ。自分のこの運命については知るわけもない、だから私(李徴)は死んだと妻子に伝えてはもらえないか、決して今日のことは明かさないでほしい。厚かましいとは思うが、今後、彼らが飢凍せずように計らってはいただけないだろうか。そう言われると袁惨は承諾したが、李徴は自嘲的な調子で、まず自身の詩などよりこのことをお願いすべきだったのだ、飢え凍えようとしてる妻子のことより、己の詩のことを先に気をかけているのだから、こんな獣になってしまうのだ、と言った。

袁惨は李徴に別れの言葉をのべ、別れた。その後、丘の上まで進んだ際に、李徴が言った通り(言っていた)先ほどの草地を眺める。すると一匹の虎が草むらから道の上に躍り出て、白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、草むらに戻って二度とその姿を見せなかった。

虎とははなんだったのか


上記の要約中の*1などの注釈、以下の文内での*1などの注釈は、「このシーンのこと」的な意味です。


まず、この話を読んだ時に感じたのはおそらくこれは袁惨の、この出来事の報告書というか、日記のようなものだとだなとということでした。次に、この話、虎要素なくても話が通るのでは?虎はあくまで袁惨の比喩表現なのでは…?そう感じました。

日記のようなものというのは、全体的に袁惨視点で話が進んでいるように感じるからですが、後述する虎は比喩表現の説明に影響があります。

虎は比喩

まずは理由より先に、虎が比喩ということについてもう少し詳しく説明します。私はこの文章を読んでいるうちに、李徴が虎になったというのは袁惨の比喩表現であり、李徴への情けではなかったのかと考えるようになりました。

ここからは私の妄想にはなりますが、実は李徴は虎になどなっていなく人間の姿のまま、森で獣のように暮らしていた。しかし袁惨がとある事情から李徴は虎になったということにしてこの山月記という話を書いたのでは。そうすることが李徴のためになると、袁惨は考えたのではないでしょうか?

このとある事情についてをこの章から次章にかけて説明したいと思います。

本文においておおよその内容、特に会話や詩の情報はそのままだと思いますが、虎についての情報を消してみても割と成り立つのでは?そう思ったので次章では実際に虎についての文章から虎要素を消して立証していこうと思います。

虎要素を消してみる

ここからは物語中で虎に関する文章から虎要素を消してみて、実際に成り立つのかを説明します。一応先ほどの要約文での「*1」などの注釈や本文での文章を引用して、どこのことかを示していこうと思います。

これから先は人喰い虎が…

駅吏が言うことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでしょうと。

中島敦 山月記 青空文庫

おそらく物語中で初めて虎に関して言及したシーンです。本文では李徴の説明が終わった後ですね。要約では*1です。

おそらくですが、この人喰い虎は虎化した李徴のことを示しているのでしょう。この事件の犯人が李徴という点においてはその通りだと思います。しかし李徴は虎として旅人などを襲っていたのではなく、生きるために山賊のように旅人などを襲っていたのではないでしょうか?

ここから虎要素をなくそうとすると、この駅吏や人の噂のもとは虎を実際に見たのではなく、"まるで虎のような獣に殺された死体"を誰かが見つけて、虎などの獣を連想、もしくは影を見掛けるなどして"人喰い虎が出る"という噂が成立したと考えられます。本文だけでは駅吏がなぜこの話を知っていたのかなどの詳細が語れていないため、断言はできませんが直接虎を見ていないのなら、成立しそうな話ではあると思います。

また白昼なら通れるとのことからおそらくは、昼間の被害は限りなく発生していないと考えられます。ということは虎に殺された、もしくは身ぐるみ剥がされ襲われた、などといった事件は夜それも森の中をと言う極めて視認性の低い空間で行われたと推測できます。そうすると、そのような状態で襲われ恐怖心も相まって虎に襲われたなどという噂が成り立ちやすいとも考えられます。そもそも今回の仮定で李徴は山賊のようなことをしているので、視認性の悪い夜に襲うのは当然かと思います。また冒頭での李徴に関する説明にて

その容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒に炯々として

中島敦 山月記 青空文庫

"眼光は炯々として"との表現からおそらく鋭く光り、睨みつけるような獣のような目であったとも受け取れます。それだけが被害者の記憶に焼きつき、虎に襲われたと勘違いしてもおかしくはないと考えられます。

よって、旅人などは虎に襲われたのではなく、まるで山賊のようになった李徴に襲われたのを、視認性の悪い空間、李徴の炯々とした眼光などから虎に襲われたと勘違いし、それが"人喰い虎"という噂を生んだのではないでしょうか。

一匹の猛虎が叢の中から躍り出た

袁惨と李徴の再会シーンですね。要約だと*2。

これも先ほどの続きのような感じで、いつものように李徴は草むらに隠れて旅人を襲おうとしたところで、袁惨だと気付き慌てて隠れたのだと考えられます。またここで大勢(袁惨の部下)に虎としてみられるわけですが、(ここから少々暴論)おそらく表に出たのは一瞬、部下も全員が全員見たわけではないでしょう。それに加え、もののけ姫のサンのように獣のような被り物などを服装をしていれば(おおよそ1年程度森で暮らしているはずなのでいくらかそういう格好になっていてもおかしくはないと思う)ぱっと見程度なら誤魔化せるのではないでしょうか。

自分は今や異類の身となっている。

自分は今や異類の身となっている。
<中略>
必ず君に畏怖嫌厭いふけんえんの情を起させるに決っているからだ。

中島敦 山月記 青空文庫

これは袁惨との再開直後、草むらに隠れたまま出てこない理由を李徴が自ら述べるシーンですね。また李徴が自分から自分は獣(虎)の姿をしていると自白しているシーンでもあります。要約では*3。

先ほども少し触れましたが、李徴は約1年森で暮らしているわけです。普通に考えてまともな格好なわけないです。それこそサンの被り物や、最近だろ鬼滅の刃の嘴平伊之助のほぼ上裸のような格好に近い可能性もあります。

そんな姿を旧友である袁惨に見せたくなかったとも考えられると思います。

左右の手で地を攫つかんで…手先や肱ひじのあたりに毛

しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫つかんで走っていた。何か身体からだ中に力が充みち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、手先や肱ひじのあたりに毛を生じているらしい。

中島敦 山月記 青空文庫

これは李徴が身体的に虎になったことを説明しているシーンです。要約では*4。

ここは少々無理が出てきます。李徴が如水の宿から飛び出した時に、何かが吹っ切れたのか、壊れたのかかなりの興奮状態でそういう勘違いをした、などという曖昧な論は立ちますが、いささか強引がすぎる気がするので却下です。

これは詳細は次章あたりで後述したいのですが、袁惨が意図的に捏造した話だと捉えています。というわけでスキップ。

谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。

これは先ほどの内容に含まれる上、上と同じ理由でスキップ。

眼の前を一匹の兎うさぎが駈け過ぎるのを見た途端に…

しかし、その時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗れまみ、あたりには兎の毛が散らばっていた。

中島敦 山月記 青空文庫

これは李徴が初めて虎(獣)としての最初の体験だというシーンです。要約では*5。これは先ほどよりは多少マシな論が浮かびます。

実はこの時点で数日立っていて、李徴は空腹で限界だった。おそらく森で生きたことなどないでしょうから、ろくなものを摂取していないでしょう。その瞬間に兎という割と食料らしきものを目にし、人間だろうと野生的な反応で兎を仕留めた、その際おそらくかなり無我夢中で、石包丁的なやつなどのスマートではない殺り方(殴打とか)をしたと思うので、毛が周りに散らばっていたのではないでしょうか。

余談ですが生の肉なんか食ったら寄生虫その他で普通に死にそうですけどね。

二声三声咆哮ほうこうしたかと思うと

虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。

中島敦 山月記 青空文庫

これは、ラストの袁惨視点での虎の確認ですね。これも先ほどの捏造話として考えても問題ないとも思うのですが、一応曲解するとこのようなものが思いつきました。

この明らかに虎(獣)らしい動きは、李徴が自ら醜悪な姿を見せ、再びここを訪れないようにするのが目的なようです。これは今度再会した時に袁惨を喰わないと保証できなかったからでしょう。

この文をそのまま捉えれば李徴は虎の姿であり、袁惨それを見て李徴と永遠の別れをしたわけですが、ここから虎要素を抜いてみます。まず、この行動の目的は上記の通り、再会を防ぐため醜悪な姿を見せることです。ということは何も虎でなくとも人の姿のまま、野生動物を殺すだとか、軽々とした眼光と共に獣のような被り物で咆哮するなど、虎でなくともある程度の醜悪さは醸し出せると考えられます。

と、ここまでところどころ強引に虎要素を消してきましたが、実際にはもう少々簡単な説明もできると思います。この虎という要素を李徴に与えたのは袁惨ではないかということです。次章へ。

虎というのは李徴への情け

先ほどの項目のうち、いくつかでスキップしたものがありました。主に李徴が自身の虎の姿について語ったシーンですね。確かにこれについて虎要素をなくすには、彼は精神病的なものだった程度しか思いつきません。しかし"虎要素を消してみる"のとある事情の内容を明らかにして、以下の解釈を物語に加えてみると意外と辻褄が合わないでしょうか?

とある事情

"虎要素を消してみる"のとある事情についてですが、これは袁惨の李徴に対する情けだったのではないでしょうか?

先ほど、私は李徴が生活のために旅人などを殺す、もしくは襲っていたと解釈し余した。そしてそれを聞いた袁惨はこの内容をそのまま後世に残すのは李徴のイメージがあまりに悪くなってしまう、そう考え"虎になる"という突拍子のない出来事で李徴の悪行や性格の難しさを美化しようとしたのではないでしょうか?

これが"虎要素を消してみる"にて考えていたとある事情の内容です。

袁惨の捏造

ここまで袁惨が李徴に対して、虎への変貌という情けを与えることで、李徴の名誉を守ろうとしていることが分かりました。ここからは先ほどの"虎要素を消してみる"にてスキップした話について触れておきます。

まず先ほどスキップしたのは李徴本人の発言のため、特に水面に映った自分の姿を確認した辺りは誤魔化しようがないです。しかしこれを袁惨が虎への変貌という話の補強として、話を捏造していると考えると一応の説明がつきます。

一旦李徴が虎になっているということは自覚しているのだよ、と読者に伝えておくことで、これは私(袁惨)の妄想ではなく事実の報告なのだと示したいのではないでしょうか?

なぜ虎だったのか

ここで、なぜ袁惨は虎を選んだのか?そういう疑問もこの記事を書いていて思いつきました。

おそらくですが、本文の以下の辺りの話は全て本当で、李徴は実際に例え程度には自身を虎と言っていたのではないでしょうか?

おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。

中島敦 山月記 青空文庫

それを膨らませ、李徴は虎になった、ということにすることで李徴が旅人を襲うことは仕方ないし、別れの際のイメージにも読者とエピソードにクッションが挟まれるのではないでしょうか…?

まとめ/結論

袁惨は李徴の旅人などを襲うなどの悪行をオブラートに包むため、虎への変貌というクッションを挟むことで李徴へ情けをかけた。よって「虎は李徴の自己批判的な描写以外では全て袁惨の脚色であり、捏造であるため、山月記における虎は単なる比喩表現であり、虎抜きでも話は成立する」、これが今回導き出した結論です。

あとがき

ものすごい暴論かと思いますが、思いついたので一応まとめてみました。普段はコンピュータ系全般を浅く広く紹介等していますので、もし興味あったら読んでみてください。こういう記事は初めてですので、読みにくい点、理解しにくい構造になっていたりしたかもしれませが、1%でも正しく私の考えが伝わっていれば嬉しい限りです。

そしてこれって意外とみんな考えていることなんじゃないか、堂々と発表していて恥ずかしかくないのかと心配になっています。

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