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影響が消える時

もうすぐ閉店するお店について、「なくなる気がしないんですよね」と語る彼の話を聞いたのが、2日前の文化の日のこと。

そんな今日は、実はもう2年半ほども前に閉店した別のお店について、「大変!あの店がなくなってる!」と別の彼女が知らせてくれた。

このふたつの事柄から、「何をもって人はお店を〝ある〟と感じるのか」という問いを持ち、恐らくは「影響」ではないか、とひとりごちた。

彼女にとって、近くを通りかかったりする度に、あ、〇〇〇に行こうかな、と過ごしていた(が叶わなかった)時間は、そのお店は、彼女の中でずっと生きていたわけで、あの窓の外から入る柔らかい風と陽光のイメージや、黄色い看板にシンプルな文字は、心象風景ともなり、近くを訪ねればその気配が、息づかいが感じられていたのだと思う。

影響はずっと〝あった〟のだ。

そしてそれは、閉店を知った今も大きく変わることはないだろう。ただ以前と異なるのは、そこにもう物理的には会えない、もう一度経験することはできないという認識が加わったことだけである。

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最初のカフェの方に話を戻すと、彼も「なくなる気がしない」と語ったが、これには少し事情が異なるところがある。

それは関係性の違いである。

前述の黄色い看板のカフェに対して、彼女(および僕)は、お客さんとしてお店に関係していたのに対して、彼の場合は、お店の運営サイドの一人であった。

大変に惜しまれながら、店を畳むことになった事実も、もうすぐ訪れる営業最終日も決まっているのに、それでもなくなる気がしないのは、前述のような「影響」だったり「残像」が自分の中に残るであろうという予感を感じている、というだけでは言い得てないように思う。

お店の運営側の視点を加味した上で考えると、前述の黄色いカフェのように、そのお店での「経験」を共有した人(お客さんや常連など)の中にも、それぞれに「影響」を持ち帰るところがあることを、運営側の彼はよく見ているし感じている。

だからこそ、それらの人との付き合いが残って、またそれぞれの人の中に、その「影響」を見つけることが出来るであろうことがわかっているから、彼は、仮にお店という物理的な実像をなくしても、その存在感は失わない、ということではなかろうか。

暴論を承知で言うと、それはイエス・キリストのようなものではないか。

その存在を経験した人の中に、強く共有されたイメージとしてあること。それがこれからも存在するだろうことを、彼は直覚していたのではないかと思う。例えば、価値を仮託された「紙幣」のように、集団による共同幻想は、存在と限りなく接近する。

みんなで信じていれば、それは〝ある〟のだ。

だから、前述の彼女がお店がなくなったことに2年ごしに気がついて、その不在を惜しんで「もう会えない」と感じるのとは対照的に、彼はと言えば、「またあえる」ような気がしていたのではないかと邪推する。

そこで過ごした人々の中に、そのカケラが生きている限り。

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それぞれのニュアンスの差はさておき、一部の限られた場所は(或いは人も)そんな風に無くなってなお変わらず、居場所を占める。

「ではこれが本当に無くなるのは、いつか」と考えたら、その記憶を失う時ではないかという直感的な答えを得たが、ちょっと違う気もする。

記憶を失ってなお、残る影響があり得るからだ。

これまでに僕も、いくばくかの特定の場所や人との関係性において、今ではもう物理的な接点も持つことが不可能なそれらと交わり、自らを差し出し、何かを受け取ってきた。

その経験で得たものが、今や自分の知覚の繊維の1本として、無意識下に編み込まれてしまっていれば、たとえその経験自体の記憶を失ったとしても、その「影響」が消えてしまうこともない。

それは見る人が見れば「似てるよね」と感じるところだったりもするかもしれない。(経験による)記憶がその役目を終えた、とも言えようか。

その人は、自らが好きになったものに、心を許し、自らを差し出し、何かを受け入れることによって、生まれ変わり続ける。その記憶を脱ぎ捨てた後でも、無意識の中のざらめとして、その影響を自らに持ち続ける。

ある意味、僕は自分が新たに好きになるもので、昔の自分を殺し続けているのかもしれない。

つまり、その影響が完全に消えてしまうのは、新たに好きになったものによってではないか。

その新たに好きになったものから、より強い影響を受け、ちょうど似た部分が上書きされてしまうことにより、昔の自分が積み重ね、記憶も役目を終えて残っていた影響も、それとも知れずに、爽やかに消えていっているのかもしれない。

ちょっとぐらいハズしといてくれよと、願うばかり。

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(以上)

写真は、今はなき神保町「エリカ」
黄色い看板にシンプルな文字が目を引き、店内は木のテーブルと椅子が並んでいて、こじんまりとしながらも風通しと音の気持ちいい空間で、それぞれ一人の時間に佇んでいる人たちがいた。

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。