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【一日一恥】名前のない日

「本を読むことを仕事にしたいの?」
「また準備、準備?」
「アウトプットはnote書くだけ?」

そんな僕のインプット偏重気味な時間の使い方に対して放たれた、茶々の散弾銃には、”具体的で量の伴った行動にしか意味はないぞ”という含意や正論の気配を感じて、うっと言葉が出なくなった。

それらは僕の内側で何度か反響して、どこかに吸収されていく。じっと長い時間をかけて、「僕にとっての意味を決めるのは僕なので…」と絞り出す。多少時間はかかっても、色々と本を読んだり、内省したりして、自分の中に響く”ふるえ”のようなものを探し、そこに基づくことが、今の僕には必要な気がしているなどと、しどろもどろに説明を加えた。

「お好きにどうぞ」と彼女は答えた。

おまたせ。そのnoteがこちらです。少し遅れましたが、そんな時は、アメリカ東海岸の気分でまだ木曜日(みたいなものさ)。

きょうは何の日?

中学・高校の時分に「きょうは何の日?」という朝のラジオの1コーナーを車でよく聞いた。

学年がひとつ下の妹は、遠距離通学をしていたため、朝が早かった。6時半には家を出て、7時過ぎぐらいの電車に乗らねば始業に間に合わなかった。朝が苦手な母親から全面的な委任を受けた親父は、何とか遅刻をさせまいと、駅までせっせと車で送ってくれていて、そこに僕もちゃっかり便乗していた。

その車内にて。毎朝NHKラジオから、5分程度の番組が流れる。

◯月◯日、きょうは何の日。
18XX年、明治◯年のきょう こんなことがありました。
19XX年、昭和◯年のきょう こんなことがありました。
19XX年、平成◯年のきょう こんなことがありました。
・・・
きょうは何の日でした。

そんなフォーマットで、淡々と過去の◯月◯日にあったことが伝えられる。車内には「ふーん」という間が漂う。

今日は何の日…?

僕は超弩級の夜型なので、生活リズムが整っていれば、午前中は寝ている。今日(木曜日)もそうだった。

起きて”朝風呂”に入りながら本を読む。『We are lonely, but not alone』という「現代のコミュニティ」に関する仮説と、実践知が書かれた本である。今手元で付箋がたくさんついた文章を見返したが、ここで紹介したい記憶の中のアレが見つからない。

あ、見つかった。

(中略)
僕は講談社という安全・安心な場を捨てて起業したように多くの人は思っている。しかし、僕の中では違った。結婚して居場所が出来たことで、社会の中での居場所を生み出すことができた。妻との関係は、僕に非常に大きな自己肯定感をくれた。それによって、僕の心理的安心と安全が確保されたから、僕は挑戦してみようという気持ちになった。(*)

居場所ができて、その人なりの安全と安心が確保されてこそ、出来ることも出来るようになるという一節だった。

付箋はしていなかった。

***

風呂から上がり、蕎麦を食べる。「雪見蕎麦」と名付ける。ここ奥飛騨では週6ぐらいの頻度で蕎麦を食べている。全く飽きない。食に対する執着があまりないのか、蕎麦がうますぎるのだろう。

食後にClubhouseを開いてみる。細かい内容は「他言無用」が規約だったと思うからざっくり言えば、ビットコインがどうだとか、好きな漫画の紹介だとか、極めつけは、どうやら新しい思想みたいなものとして一部で注目がなされはじめているっぽいウンドゥルなんとかみたいな話を聞いた。

この最後のやつは、イヤフォンをつけたまま途中で寝てしまったのだけど、眠りからさめた時にもまだ、そのなんとかヌガガッペの話がなされていて、夢じゃなかったんだなと思った。何かをキッカケに違う世界線に転生したような気持ちがした。例えて言うなら、これまでのウンドゥル前の世界から、月が2つ浮かんだヌガガッペ後の世界に。

言葉にした途端にするりと逃げてゆく、捕まえたと思った瞬間に損なわれてしまうようなもの、そんな体験や経験の総体としてしか言えぬようなもの。そのスンドゥブなんとかもその類らしかったので、5年後ぐらいの答え合わせを待つことにする。

***

気付けばとっぷり夜の帳は下りていて、いよいよワシも何かしやなあかんな感に襲われたあたりで、スマホのDisplayに、もう一本興味深いClubhouseが予定されているのが目に入る。

先の『We are lonely, but not alone』著者のnote公開編集だとか何だとか。またノコノコと聞きに行くと、今のコンテンツ制作の肝的な話をしているように聞こえた。ちょうど今朝読んだ本の先を、こうじゃないか、ああじゃないかと仮説が展開されていた。聞き終える。二度目の風呂から上がった。


さて、やりますか。僕にも僕のクリエイション。

座して始める。今日は何を書こかしら。このnoteの最初の1章分を書いたところで、眠気に耐えられずソファで寝た。残りは全て翌日仕上げである。

僕にとっての「今日」はそんな風に終わった。どうだろうか。こんな日に、これぞという名前はつけられるだろうか、難しいように思う。どこかで見たふかわりょうの言葉を思い出す。

名前がない日の月を見て


(以上)

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(*) 参考


よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。