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欠点に魅力は宿り、遊びに神は微笑む

さて、少し久しぶりなので、まずは発声練習から。Yay Yay Yayと。

もし起こることを起こるままに任せたら、あれはあれ、それはそれと、通り過ぎてもゆく日々ですが、時に「これは」ということが起こります。

そんな時は、できたらなんとかその瞬間のムードだけでも捕まえて、ちっと聞かせる話にでもならんかいなと思う。コロッケ大に頬張れる程度の文章にでも。水野家の牛肉コロッケは80円やったっけ。

どうもこの夏はココロがゆれる。でもこりゃ料理のし甲斐もあるぞと構えてしまうともういけない。動けなくなる。そんな時はCatch the waveの精神で、フワッと来たやつにサラッと乗りたい。あまり考え過ぎぬこと。その波逃して次の波を捕まえるのは、簡単でも確実でもないのだから。

即応こそ唯一の機会と心得たい。

そっか。時に多忙なビジネスパーソンが「即レス」をモットーにしてるのは、仕事が出来るからというよりも、多分それが最も省エネだからでもあったのだろう。

発声練習終わり。

コンテンツ、コンテンツと言うけれど

今週読み終えた、ドワンゴを経営する川上さんの本『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』の最後の一文は、この本を通じた問いである「コンテンツと何か?」に対する解答であった。

曰く、、と続けようかと思ったが、これはネタバレになるかもしれないな。というわけで、特に問題ない方はスクロールして続きを読んで下さい。

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さて、「コンテンツと何か?」の川上さんの暫定解、それは

コンテンツとは、“遊び”をメディアに焼き付けたものである(*1)

であった。

一冊の本を通じた思索の果ての着地なので、即座に納得されるようなことはないとは思うが、まずはこの結論から紹介したい。実に深い球である。

なるほど、遊びをねぇ。メディアに、、、なんて?

となること請け合いかと思うので、この飛躍に超訳を試みれば、「コンテンツとは、“これは…!”というムードや世界観や感情の動きのあるやりとりを、他者にも伝わるよう特定のメディアのフォーマットにうまいこと落とし込んで表現したもの」というのが、個人的な理解である。

※個人的な理解である

オリジナリティとは何か

「コンテンツのオリジナリティとは何か?」なども興味深い問いであった。川上さんによれば、オリジナリティが生まれる可能性は、基本的に「偶然」頼み、ないし既存のものの見え方の変化に過ぎない、と言う。

具体的には、以下の4種類のパターンを挙げる。

① 脳のヴィジョンを再現する能力が技術的に不足しているため、偶然に、なにか違うものができてしまう
② 意図的にでたらめな要素を入れてコンテンツをつくる
③ パッチワーク的に、自分がつくっていない要素をパーツとして利用する結果、自分がつくっていない要素が原因で〝奇跡〟が生まれる 
④ いままでの自分が知っているパターンを切り貼りして、新しい組み合わせのパターンをつくる

上記パターンはあまりに覚束ないラインナップにも感じられるが、この設計思想に含まれるゆるさや、実験的な余白をも、“遊び”と呼ぶことも出来るのかもしれない。

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また巷で言うところのクリエイターの“産みの苦しみ”とは、この「オリジナリティの獲得」であり、具体的には、以下の3段階で苦しむようだ。

1.) まだ世に見つかっていない「価値(ヴィジョン)」を見つけること(*2)
2.) それを「客観的な情報」で置き換えて再現すること
3.) それを見た人が「主観的な情報」としての価値を受け取ること

※ここは正確な引用ではないので注意

どの段階も難しいが、川上さんに言わせれば、実際的には、1.)はもう存在せず、2.)は不可能だと言う。

つまり、素晴らしいコンテンツが表現している価値とは“既に過去に見つけられたもの”しかなく、またそのヴィジョンも“完璧には再現できない”ために、再現誤差を含めた「表現」として捉えるべきである、と。

そして、前述のオリジナリティとは、この再現上の“ズレの部分”にむしろ宿るチャンスがあろうことを言ってるように感じた。つまり、表現されるコアの価値の部分(例えば、家族愛)は同じでも、その表現がいい感じにズレていれば(例えば、万引き家族)これまでにないオリジナリティを獲得するチャンスがある、と。そのパターンが、先の4つである。

ちなみに少し話は逸れるが、クリエイターが自分が何を作ろうとしているのかを、最初から明確に把握していないケースもままあるのが実情のようだ。自分自身も最終的にどうなるかを知らないことで、予期せぬ偶然的なものを呼び込む余白を作っているんだと思われる。

その「コンテンツ」が、作り手にとってやりたいことが出来た、と思えたならもう万々歳ではあるが、最終的な着地は、受け取り手の脳の中に残るもので決まる。つまりは彼ら彼女らにとって、その表現がどれほど主観的に重要で価値のある情報として受け取られるか次第、になる。

例えば、これはまさに僕のため、私のためのもののようだ、と感じたなら、それは強い主観的な重要さがあったと言えるだろう。川上さんによると、エンタメ文脈であれば「見た人の感情が動かされるかどうか」次第なんじゃないの、的なことであった。

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これまでの引用をえいやとまとめると、こうなる。

・コンテンツとは、遊びをメディアに焼き付けたもの
・オリジナリティとは、偶然や見え方の変化を活かした新しい表現のこと
・クリエイターとは、オリジナリティのあるコンテンツを作ろうとする人
・よいコンテンツとは、作り手のやりたいことが実現出来て、受け取り手がグッとくるもの

イントロ終わり。

Perfectly imperfect

僕は、今後より多くの人が(例えば、幼い子供が皆そうだったように)“その人らしさ”に支えられたアーティスト的な側面をうまいこと活かしながら生きていくようになる気がしている。

そうなったらいいなと期待してるのもあるが、あらゆる分野で押し寄せる、効率化・自動化の波にあっては、“人間のしごと”がそういった情緒的な部分に見いだされていく気配を感じるからである。

大いに業界や領域にも依るとは思うが、何かを正しく処理することに関しては、人間はもうお役御免になってゆき、むしろ“その人らしさ”とは、うっかりミスをするような時のズレ方に「芸風的な味わい」が出てくるのではないかと思う。むしろ“その人らしい弱み”にこそ良い芸風が立ち上がっていくるんじゃないのかい、と唱えている僕にはグッとくる内容であった。

先の議論に立ち戻ると、「オリジナリティ」はズレの部分の表現にあって、人が欠けたりズレたりしている「不完全さ」が、何かしらとの掛けあわせで、特定のメディアフォーマット上でうまいこと実を結ぶ時に獲得され得るものだと言っている(と理解した)わけだけれども、

そこでは欠損や偏りはネガティブなことではなく、むしろ成立するための「前提条件」になる。言い換えるなら、

よいコンテンツは、その成立に不完全さ≒人間らしさを求める。

そこには「imperfectでこそperfect」という世界観があると思う。コンテンツ作りに悩む人にとって、じっくり心に染み込ませたい考えだと思った。

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てなわけで、おもしろい本を読んだので、自分の曖昧な雑感にまぶしてあげてみた次第。しかし雑味が強い。水野家のコロッケはもっとうまいのにな~。是非一度ご賞味頂きたい。80円とは思えんよ。

(以上)

(*) 補遺
(1) この一文に至るまでの思考の流れや整理、同テーマに関連するジブリ内外の人々のエピソードの数々がこの本の面白さだと思うので、ネタバレ関係なく楽しめるのでご安心あられたい

(2) 宮崎駿監督は、これを「世界のひみつ」と呼んでいるらしい。つまり彼の場合は、“まだ見つかっていないものが残されている”というスタンスなんじゃないだろうかと想像する

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。