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ことばにならない

手癖で書ける台詞はあっても、手癖で書ける履歴書が無い、わたしには。

考えるよりも先にこころが駆け出すようにしてはじめた演劇は、勢いに浮き沈みはあれどもう13年ほど続いていて、脚本だったり演出だったり制作だったり演出助手だったり劇場管理だったり、関わり方は都度変わってもうまいこと息継ぎしながらここまでやってきた。しんどかったし、怒られもしたし、嫌な思いや理不尽な思いもたくさんしたけれど、なんだかんだ「舞台芸術のことが好き」だったから生き延びてきたし、おかげさまでいまもこうして死んでいない。


だから、とても悩んでいます。
次の仕事の履歴書が、職務経歴書が、書けない。


次にやろうとしている職種は、とても正直なところ、「好き」だからやるというわけではない。もちろん「かっこいい」とは思っているし憧れもあるけれど、でもその「かっこいい」が一体どんなことなのか、なにに憧れているのか、具体的な言葉にならない。
非常にクリエイティブでありながら、限りなく受け身な姿勢が求められる職種だから(少なくともわたしはそう理解している)、これまでわたしがやってきたような仕事は、すこし踏み込みが強いというか、こちらが自主的な創造性を無遠慮に発揮した途端損なわれてしまうようなものを、丁寧かつ迅速に取りこぼしなく取り扱っていかなくてはならない。そんな仕事です。


とりあえず頑張って、これまでの職歴を振り返るべく自分のプロフィールを眺めたり、前職時の採用面接時に作った職務経歴書を読んでみたりすると、もちろん自分で書いたわけだから一瞬でわかるのですが、手癖手癖のオンパレード。「あなたがたが必要としているわたし」をブラインドタッチで描いていて、さすがに13年やってきただけある。
しかし、もう一度わたしの中から探さなければいけない、地続きの体のままで、次に必要なわたしの「像」を。

めまいがします。比喩でなく、実際にパソコンの前で何度も動悸に襲われて、いまも薬を飲んでここに逃げてきました。「好きなことを仕事にできていいね」といろいろな人に言われてきたけれど、「好きなこと以外全くできない」という人間の、強烈なまでの生きづらさを想像したことはありますか。次の仕事はやりたくないこと、というわけではないのです。ただ、演劇よりはすこし下位にある、というだけです。「じゃあ一生演劇で飯食えよ」というのは、すでにわたしの中で語り尽くされたことであり、ここでは愚問です。そんなことが叶うならとっくにやっています。

逃げている時間もそこまで無い、けれどもやはり、振り返ると手と頭が止まってしまう。舞台芸術のことは大好きだけれど、それで今後も稼ぐことは心身ともに難しい。前向きになってこれまでのわたしをこれからのわたしに接続しようと試みれば、昔の記憶がぶわっと込み上がって喉の辺りが苦しくなる。涙も出る、声は出ない。

演劇のことが、ダンスのことが、ほんとうに好きなんです。好きなのに、仕事としてやったいろいろなことを思い出すと、苦しい。でも思い出さないと、志望動機もアピールポイントも書けない。苦しい。次やる仕事のことだって、まだやってもいないからそもそも嫌いでもないし、やってみたいからこうして頑張って働こうとしているのに。


どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
わたしは、演劇やダンスを好きでありつづけるために、必要以上に傷ついて、それをごまかすことで何度も延命して、いまさら直視するにはとても禍々しい有様になってしまったのかもしれない。全部を嫌いになって、捨てて飛び出すくらいの方がきっと清々しいのに、やりきれないのです。

「働かざる者食うべからず」とはよく言ったものだな。働いている人、眩しすぎて言葉もない。もちろん疲れて休んでいる人たちは十分休んでほしいし(そして休むというのはただ家で寝ているだけでなく、気ままに好きなことをするというのも含まれる/これに理解のない人は自分がたくさんの屍の上に立っているということに無自覚だと思う)、無理をしている人はできるだけ早急に休んでほしいとも思う。しかしわたしは、十分に休んだと社会に認定されてしまったので、働かなければなりません。


いま、ため息が出た。

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