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わたしの幸せ哲学:Love your job

3歳のヨーヨーが大好きで、「トーマスは1、パーシーは6」とその車体番号で数字を覚えつつあることに色気を出して「トーマス大図鑑」を買ってしまったが最後、毎晩のようにそれを読むのに付き合わされ、一話分くらいしか出てこないようなマニアックなキャラの名前とエピソードまで覚えてしまいつつある。このドリル、他の仕事に充てたい。

図鑑だけだとうんざりするので、最近は区の図書館からトーマスシリーズの絵本を借りてきては読んでいる。個人的には、3Dっぽい映像シリーズは不気味の谷に片足を突っ込んでる気がするのだが、絵本の方は、絵柄がクラシックでなんとも味があっていいなあと思う。

それでその世界観を知るようになったのだが、ソドー島(トーマスのお話の舞台)の機関車たちにとっては、気まぐれな客車・いたずらな貨車・意地悪なブレーキ車なんかとやりあい、信号所に突っ込んだり、脱線したり、助け合ったりのドラマが日々あるなかでも、ふとっちょ局長ことトップハムハット卿に「はたらき者のいい機関車だ」と褒められることが最高のホマレなのである。

わたしは常々、幸せとは何かと定義を聞かれたら(他にも、諸条件はあるけれど)その一つは「勤労の喜びを知る」ことではないかと思っている。

他者からなんらかの役割を与えられ、常にとは言わないが概ね手抜きせずにそれを遂行できているか。自分の仕事に誇りを持ち、継続可能性を信じられているかというのは、どんな社会においても人のハピネスにかなり大きく関係していると思う。

最初は「華麗なるギャッツビー」を読んでその思想を頭の中で転がしはじめたので、つまり、20年くらい?前から、そう考えている。

「働いたら負けかなと思っている」というパワーワード(パワー画像?)がいっときバズった。そう言う人は第三者からは決して幸せには見えない。仕事を無視するものは仕事にも無視される。しかしバズった理由は、やはりそれが万人にとっての大きな課題であるからなのだ。

言うまでもないが補足すると、家事も立派な仕事であるので、専業主婦がその仕事を誇りをもってきちんとやっていて、サービスの受け手である夫(あるいは他の家族)から十分に尊重されている場合、それは間違いなく幸せである。

あなたは自分の仕事が好きかと問われた時に、トーマスたちくらいにあっさりと「まっとうな機関車なら働きたいものさ」と答えたい。それは外から与えられるモノサシではなく、自分の中に持つ矜持なのだ。

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