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非言語的なものとリモートワーク

コミュニケーションは言語的なものと非言語的なものとで構成されるが、その後者については、お互いに「こういう仕草はこういう時に出るよね」という暗黙の了解があってこそ成立するものだ。

育ってきた環境や文化が同じであれば、自分と相手とで多くのコンテクストを共有しているので、その分、非言語的なところでも通じ合える。でも、それが異なる場合は、たとえば互いに第二外国語としての英語が使えるとしても、非言語の部分での食い違いというのはまあまあマテリアルだ。

有名なところでは、人差し指と親指の先をつけて残りの三本の指を立てるマーク、日本人は「ばっちり!」的なニュアンスで使うこともあったが、ある国では「金をくれ」というマークだったりするし。左手は不浄として、握手するのも子供の頭に触れるのも、うっかり左手を出すと「なんやねん」となる文化もある。

外資系あるあるでいうと、日本人というのは英語力に問題がなくても国際会議でとにかくニコニコうなづいて発言のタイミングを見計らっていたら全く隙を与えられずに終わってしまった、なんてこともあるのだが、そしたら裏で「あの人馬鹿かな」と心配されていたりする。逆に、発表者の文脈を無視した質問をガンガンぶつけるインド人を見ると日本人的には「あの人馬鹿かな」と思うけど、200以上の言語と1600以上の方言がある彼の国の人は、とにかく発言による反応を得ながら自分の輪郭をはっきりさせていくことが習いなので、まあ、コウモリやイルカが目に見えないソナーで世界との距離感を図っているようなもんなのだ。いずれも、グローバル・コミュニケーションの訓練をちゃんと受けたら、ある程度解決する。

なんで今更そんな当たり前のこと書くのかと思われるかもしれないけど、昨今急速にリモートワークが浸透する中で、ZOOMとかTeamsとかの画面越しのコミュニケーションが増えて、そうすると、実は、そこでは言語的な会話はできても、非言語的なやりとりがごっそり削られるので、常時、同じ非言語的な前提を共有する仲間とやりとりをする、いわゆるハイコンテクストな日本企業の人たちは、より強いストレスを感じているだろうなあと考えることがあったわけです。

私は、現在のこのオンラインが基本みたいな状況にあまりストレスを感じないのだが、それは、テクニカルなところであまり不自由がないということ以上に、かつて多国籍の同僚と日常的にやりとりする仕事をしていた時間が長かったからかもしれない。そもそもロケーションが違いリモート前提な部分が大きかったが、顔を合わせても非言語なところで通じ合うことに過大な期待はできないから、協業のためには母国語でない英語で合意をきっちり形成しながら進める必要があった。

当時はそこまでの自覚はなかったが、自然と、相手の非言語的なところにも細心の注意を払う習慣が身についていた。自分にはこう見えても、相手は実はちがうこと考えてる・感じているという前提、だいたい人様はどんなに頑張ってわかろうとしても自分が思ってんのと違う、というスタンス。

ただ、それはスイッチが入った時の私の話であって、スイッチオフの私はむしろ人並み以上にぼけーっとしていて鈍感でKYです。

まあそんな、鈍感ベースの私が偉そうにいうのも変だけど、リモートでの協業が浸透する世界においては、日本人同士であっても、ある程度異文化コミュニケーションリテラシー的なものを学ぶことが案外役に立つんではないかなと思うわけです。

言語的なものであれ、非言語的なものであれ、自分とは異なる人を理解しようという相互努力が世界を繋いでいくのであります。

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