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パフォーマンスの労働者化とニコニコ動画の創造について

2021年5月18日改訂(約6,900字) 

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はじめに

 ニコニコ動画は2ちゃんねる由来の無数の言語を継承しながら、多くの創発現象を発生させてきた。本稿は今日の参加型アートと称される、現代アートの中でもパフォーマンスを中心とした議論の問題を参照しながら、ニコニコ動画における協働的な創造行為とそれを連関させて検討するという、一見荒唐無稽な試みである。noteのタイトルには「パフォーマンス」と「ネギの生成過程」という言葉が並んでいるのだが、この二つがもともと全く関係のないものであることは自明だ。しかしながら、現実社会の中で展開されて行く参加型アートの実践と、インターネット上の空間で展開される無数ものユーザーたちが交錯する結果生じる創発現象=「ネギ」の生成とは、ともに単一個人によって成し遂げられるものではないという点で共通するだろう。

 このような無謀な筆者の持論を展開するにあたって、まずはソーシャリー・エンゲイジドアートと、その背景にあるパフォーマンスの理論が何であるかを確認することから始めたい。それらの議論は2000年代以降に始まり、今日の現代アートの最前線をも構成しているものだ。そのために、これらの議論の現状を公開した数年後にはもはや古い議論になっているかもしれないが、ここではその問題は一度無視することにしたい。筆者が参照したいのは、ソーシャリー・エンゲイジド・アートの本質的な要素であるパフォーマンスについての議論であり、その中でもパフォーマーの「労働者化」に関する諸議論である。

パフォーマンスの「労働化」 

 先述のように、今日ソーシャリー・エンゲイジドアートと称されるアートの実践は2000年代以降活発化し、日本でも特に2011年の震災以降、芸術と政治、社会との連関を論じる際に参照されてきた。それらの芸術形態は従来のパフォーマンスをより現実社会上で展開したことによって、従来のパフォーマンス=演劇の中にあったフィクション的要素と現実社会との重複から、現実社会の問題を批判的に表現する手法として行われた。そのため、ソーシャリー・エンゲイジド・アートの背景には少なからず、現代アートにおけるパフォーマンスの議論が必須となる。パフォーマンスに関する議論はソーシャリー・エンゲイジドアートと多くの領域で重複することから注目を集め、2018年8月の『美術手帖』では「ポスト・パフォーマンス」という特集が組まれ、今日における多様な演劇やダンスの在り方についての検討がなされている。本稿ではこの中に掲載された田中功起氏によるエッセイ「パフォーマンス以後のパフォーマティヴィティについて」を参照しながら、ここでは近年におけるパフォーマンス論の問題を紹介したい。

 このエッセイは、パフォーマンスにおけるアーティストが演劇を行う人間ではなくなり、演劇を行う人間に対して指示を出す存在へと変貌したという問題を提示し、これが今日におけるパフォーマンスの大きな特徴であり、なおかつ問題であるとしている。田中はイギリスの美術批評家のクレア・ビショップが書いた『人工地獄』を引用しつつ、以下のように述べている[i]。 

「委任されたパフォーマンス」の状況下には主体がない。大量に投入された入れ替え可能な身体は、工場の歯車として働く、かつての労働者と同じだ。(…)ビショップは「人工地獄」のなかで「半ば台詞に基づく彼らのやり取りは不意に、どこか個性に欠けて暗記されたものと感じられるようになる」と書いている。 

「委任されたパフォーマンス」とはビショップが著作『人工地獄』の中で提示したものだ[ii]。彼女はこの言葉を用いることによって、近年のパフォーマンスアートが「アーティスト自身」によって行われるものではなくなり、アーティスト自身とは関係性を持たない「第三者」がアーティストの指示を受けた形で、すなわち「委任される」形でパフォーマンスを行っていることを指摘している。「委任されたパフォーマンス」はアーティストがアート・ワールド(美術館や芸術市場など、芸術空間を形成する空間)の外へ行き、社会と関係を持つことによって社会と協働するパフォーマンスの可能性を開いた。だが、一方で芸術の中で内包された政治性、社会と芸術との距離感といった、新たな議論をも生じさせている。このような「委任されたパフォーマンス」によって行われる新たなパフォーマンスの形式のことは、いくつかの議論を経て今日「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」と大きな枠組みでは議論されている(これらのアートを呼称するために用意される概念枠組みについてはその背景に内包されるイデオロギーも含め複雑な議論があるために「参加型アート」や「共同型アート」などといった言葉も用いられるが、ここでは大枠として「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」という言葉を用いる)。

 ではこのような「委任されたパフォーマンス」の形成の、いったい何が問題だったのだろう。元来、パフォーマンス=演劇が行われる会場は常に「劇場」であった。この空間は一般的にステージ上での役者に注目を集められるように、壁やステージを黒塗りにすることが多い(映画館をイメージするとわかりやすいだろう)。このような空間は「ブラック・ボックス」と呼ばれるが、対して美術館、特に現代アートにおけるギャラリーは四方を白の壁に囲まれている。これはアメリカのニューヨーク近代美術館(MoMA)によって作られたスタイルで、これは先のブラック・ボックスに対し「ホワイト・キューブ」と称されたという背景がある。ビショップはパフォーマンスがかつてのブラック・ボックスからその外部、そしてホワイト・キューブに舞台を移すときに、何が問題になっているのかを明示化した。すなわち、元来パフォーマンスを行う立場にあったアーティストがその立場におらず、その代わりにアーティストによって雇われた労働者がパフォーマンスを行っているということだ。このことはブラック・ボックスとホワイト・キューブを比較することで明確化する。演劇は常に演劇時間が設定されており、開演と終演の時刻は固定されている。これに対し、美術館の環境は開演も終演もなく、開館時間から閉館時間までの長い間にわたってパフォーマンスを続けなければならない。この環境においてアーティストが長時間パフォーマンスを行うことは、体力的にも困難だ。そこでアーティストはパフォーマーとなる労働者を賃金で支払い指示することで、自らの芸術表現を労働者であるパフォーマーにさせる。時間を区切って交代を入れることで、ホワイト・キューブ上でのパフォーマンスは半永久的に可能になる。そこでは、パフォーマンスを行っているものはもはや「労働者」になってしまい、そのためにアーティストとパフォーマーの間には非常に契約的な関係が置かれる。

 このような問題は現代のパフォーマンスにおける大きな特徴であるとしているが、その一方で元来の創作者であったパフォーマーにとってはその立場が失われ、労働者にまで立ち位置を低下させてしまった点において非常に由々しき問題だいう批判が生じている。田中はパフォーマーが複数集まることによってそれが「集団」として権利の有用性を主張するという[i]。

人々は集まり、その集まりが呼びかけとなり、さらに多くの人々を集める。集合する身体を見た誰かが、そのパフォーマティヴィティに誘われさらに集まっていく。身体はそこに集まるだけ生の権利を表明していたわけである。

アーティストによって雇われた労働者であるパフォーマーが集団となることで、それ自体がアーティストの表現とはまた別の意味を有することがあるのではないかということだ。労働者が集合していることがまた新たな労働者を誘い、それが大きく集合することによって一つの意志のようなもの、つまり「生の権利」を表明するというこの主張は、パフォーマーが労働者となり果てた今日のパフォーマンス、そしてパフォーマンスを現実社会上で展開するソーシャリー・エンゲイジド・アートの問題に対して、一つの重要な指摘を加えている。

ニコニコ動画における労働者の力学

 田中の議論は委任されたパフォーマンスとそれに従う労働者の新たな創造性についての指摘であり、労働者の集団的創造性という点に注目することで重要な指摘を加えた。田中の指摘はあくまでもパフォーマンスという現代アートの一分野に焦点を当てたものであるものの、そこで指摘されるのはアーティストとパフォーマーが雇用者と労働者という二項対立に回収されていることだろう。労働者は雇用者が設計した指示通りに動くことを命じられるが、一方で労働者の集団的な活動は雇用者の意図を超えて新しい可能性を提示していく。いわばこの問題は制約を受けた者の制約下での活動の問題である。

 以上の問題を前提に据えることで、少しずつ議論をインターネットの方面へと展開できないだろうかと筆者は考える。なぜなら、ユーザーはインターネットという技術的制約を強いられながらも、そのうえで無数もの活動とコミュニケーションを交わすことが可能だからだ。アレキサンダー・ギャロウェイ曰く、インターネットとはプロトコルによって管理制御された社会であり、私たちはプロトコルの論理を超越してインターネットを使用することはできない。つまり、私たちの使用しているインターネットそのものが、私たちに対して課されている技術的な制約なのだ。しかし、私たちは時にそのような制約を受けて初めて、大きな創造性を発揮させることがある。2ちゃんねるはその設計思想から、いわゆる「常連」を発生させる要素を排除している。匿名性とスレッドフロー方式を採用することでユーザーは互いにコミュニケーションを交わしている相手が何者であるかの一切を把握することができないのだが、そのような制約ゆえにユーザーたちは独自の言語体系を用いてコミュニケーションを交わし、それが結果として2ちゃんねるという巨大な創発現象を生み出してきた。このように、私たちに対して課される制限は時に私たちという集団を大きく進化させる可能性を内包しているのだ。

 このように2ちゃんねるが大きく注目され、インターネットに対する熱狂的な注目が集まる2000年代のさなかで、初音ミクの「ネギ」はユーザーによる集団的な創造現象の一つとして生まれた。2007年にボーカロイド「初音ミク」が発売されて数日の後に「VOCALOID2 初音ミクに「Ievan Polkka」を歌わせてみた」という動画が流行し、動画中で初音ミクをデフォルメしたキャラクター(はちゅねミク)がネギを振っていたことから「初音ミク=ネギ」というイメージの形成が始まったことは数多くの議論ですでに指摘されているだろう。ネギの登場から2か月後、2007年10月31日に投稿された「【ネギ踊り】みっくみくにしてあげる♪【サビだけ】」は爆発的にヒットし、結果としてこの動画が初音ミクの「ネギ」を強力に定着させる要因の一つとなった。下図のネットワーク構造に関する図は最も中心にある点が「VOCALOID2 初音ミクに「Ievan Polkka」を歌わせてみた」であり、そこから発生した無数のN次創作の関係性が提示されている。

画像1

動画引用におけるネットワークの関係図
(濱崎,武田,西村 2010より引用)

 このような「ネギ」をめぐるネットワークの最も根本に位置づけられるのが、「初音ミク」と「ネギ」を結び付けた「ロイツマガール」という動画だ。「ネギ」に関するあらゆる創造行為は「ロイツマガール」のパフォーマンスをなぞらっており、それが幾千も行われることによって、イメージはより強固なものになっていった。しかし、2007年にクリプトン・フューチャー・メディア株式会社によって初音ミクが発表された時点では、初音ミクにネギはついていない。それは2ちゃんねるの影響を色濃く受け継いでいるニコニコ動画のユーザーたちによって付与されたものであった。だからこそ、そのような発生はとても興味深いものがある。

 「ネギ」の発生にはそこにはオリジナルの意図を超えた、無数ものN次創作の連鎖があることはすでに述べたが、ニコニコ動画はN次創作の中で、幾重もの動画の引用ネットワークを生成してきた。そしてその引用ネットワークが構築されるほど、そのオリジナルに相当する動画はその存在を大きなものにし、まるで共同体内の言語のように受容されていく。「初音ミク=ネギ」は不特定多数の再生産によってその表象が増強された結果、ミクの「ネギ」は一つの初音ミクを表象するイコンとして、共同体の言語のような力を持つことになった。

 このN次創作によって形成されるユーザーの連帯という現象は、先に田中の議論から参照したパフォーマンスにおける労働者への注目への議論と、ともにオリジナルではないものに対する注目という点で共通している。先に筆者は田中の議論を参照しながら、委任されたパフォーマンスの中で労働者の集合的なパフォーマンスはもともとのアーティストの指示の意図を超えたまた新たな独創性を提示している点を強調した。一方で、初音ミクの「ネギ」はユーザーが「初音ミク」というオリジナル的存在をもとに発生させた無数ものN次創作物の連関によって、オリジナルの意図を超えた新たな創造性を2000年代を中心に大きく展開させていった。ニコニコ動画の「コンテンツツリー」というシステムは、いわば運営側がN次創作を積極的に推奨する設計がなされ、ユーザーに対してオリジナルの想定の範囲を超えた幅広い創造活動を促す作用を与えているだろう。それはまさに、田中が「生の権利」と称したような、委任されたパフォーマンスの意図を超えた労働者の集団的創造性に注目するものではないだろうか。

おわりに

 本稿は現代アートの中でも大きな注目を集める領域であるソーシャリー・エンゲイジドアート、そしてその理論的背景にあるパフォーマンス論についての田中の議論を参照しながら、パフォーマンスにおける労働者の集団的創造性とインターネットユーザーたちの集団的創造現象とを比較しながら、両者の共通点を考えてきた。一見するとパフォーマンス論とインターネット論は明らかに遠いものであるが、ある種の制限下を受ける集団が制限を与える存在の想定を超えて新しい創造を行っている点で、両者は共通する。ニコニコ動画は「コンテンツツリー」をはじめとした積極的な動画引用ネットワークの形成を推奨するなど設計思想の時点からオリジナルの想定を超えた創造を促すようになっており、本稿が扱ってきた「ネギ」はまさしく、その一つの例であると主張することができるだろう。その設計思想には、2ちゃんねるが独自の言語形態やコピペ構文を創造することによって集団意識を形成してきた経緯が隠れている。

 ニコニコ動画の登場が10年以上が経過した現代、このような積極的なN次創作とオリジナルの範疇を超えて無限に拡散されていく集団的な創造現象は、ある種の危機的な状況に陥っているのではないだろうか。「コンテンツツリー」を通して作品の引用関係が明示化されていくことがニコニコ動画の一つの特徴であることについては先述したが、その存在は一方で「オリジナル>N次創作」というヒエラルキー的構造を作り出していることも少なからずあるだろう。特にボーカロイドに注目すれば、いわゆる「歌ってみた」「踊ってみた」の動画の作成者は、少なくとも今日の状況下においてはオリジナルの動画制作者よりも下の存在としてみなされてしまっている状況が散見されているように見える。その理由に「コンテンツツリー」による引用関係の階級構造的な視覚化が大きく起因しているか否かはここでは判断できないが、少なからず関係もしているだろう。この問題はもはや2010年代以降においてニコニコ動画に限定されず、SNS一般においても指摘できるのかもしれない(Twitterの「パクツイ」など)。しかし、そもそもニコニコ動画はオリジナルの意図を超えた無数の創造性、田中の言葉を用いれば労働者の「生の権利」と肯定する場としてあったはずであり、それゆえに「ネギ」は生まれてこれた。2020年も目前となり、ニコニコ動画と国内ネット文化の変容が今現在発生しているのかもしれないが、これまでの歴史を振り返りながら、私たちは今後の変化を観測していかなければいけないのかもしれない。

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[i]田中功起「パフォーマンス以後のパフォーマティヴィティについて」『美術手帖』2018年8月号.
[ii]クレア・ビショップ『人工地獄——現代アートと観光の政治学』2016年,フィルムアート社.

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