全ては解体されるのか――「思考実装#5」にあたって
正月。崩壊した生活リズムの影響をもろに受けながら、年末年始の諸書類を実家で整理したのち、論文を執筆しつつ文章を書く。私は今年度をもって大学院を修了するため、論文の提出が必要な身分だ。地道に書き上げていた文章は、およそ9万字。どうしてこんな書いてしまったのか、こんなに書いてしまったらその後どうやって推敲するというのか、そんな不満を過去の自分に向けながら、文章を書き直していく年末年始を過ごす。夏休みの宿題をしなきゃと思いながらもベッドの中で延々と寝続けたあの小学生の日々を思い返すような状況に迫られながら、推敲をしなければという思いだけが脳内を堂々巡りしだし、ついには何もしないまま年末に到達してしまった。
そうして過ごしていた2021年の12月30日は、私の誕生日だった。もはや「(誕生日を)迎えてしまった」といった方がしっくりくるほどには、誕生日に対する特別な思い入れもすっかり無くなってしまった気がする。もうそんな歳だったか。先日、東京からの友人を迎え入れながら京都でしていた話は、自分の将来への皮肉と憂いに塗れていたような気がした。そこまで言うなら責任を取ってくれるのだろうかとも言いたくなるばかりだが、結局どこかで分かり合えないのだろうという結論にたどり着く。「そう思うならそうでいいんじゃない?」と私は繰り返すのみであった。相互理解はなく、ただ互いの考えが根本的に異なっているのだったら無理に分かり合う必要なんて微塵もないじゃないかという、諦めの気持ちだった。とはいえ、私自身もそうしたことを気にしなければいけない歳なのも、言うまでもないだろう。
いずれにせよ、もう誕生日に対して特別な感情も抱くことは無くなってしまったような気分だ。実家で過ごしているのならばまだ家族に祝われたのかもしれないが、どうせ大学院ももう修了する齢だ。特に正社員になるわけではないが、次年度から何をするかは一応、決定している。そんなわけで、もうすっかり人生の青い春はすっかり遠くの景色のようで、私は静かに人生の初夏に向けて準備をしている気分だった。だからこそ、一人で静かに過ごそうじゃないか。「だったら、一人で曲を作ろう。それこそ自分らしくていいじゃないか。どうせ昨年も同じことをやったのだから…。」
かくして、この音楽は25日ごろより本格的に作り始め、29日に完成した。自分の過去作品の中でもこれほどの制作スパンの短さは過去になかったかもしれない。とはいえ、その出来は満足しているものだ。
反復される「呼吸が聞こえる」という言葉。しかし敢えて言えば、自分の呼吸は意識しない限り、自分自身には聞こえない。自分の呼吸を録音して、こうして再度ファイルに貼り付けて再生することによってはじめて自分の呼吸を耳にする。当然のことのようだが、私は呼吸を自ら意識的にしていない。何とも不思議な感覚だが、私は自分の身から出たそれらは、自分のものでありながらも自分のものではなく、そして他者によってコントロールされることもない。自分自身が唯一所有できる「自分でないもの」である。そこには何かしら、私の言葉の限界を超えるような可能性があるのではないか。
私たちの言葉にはどこかしら限界がある。それを自覚し、言葉の限界を超えようとする試みを恐らく「脱構築」というのなら、この音楽は恐らく脱構築を目指している。しかし、言葉の限界を指摘し、その法則性を崩し去った果てに残る「かつて言葉だったものたちの瓦礫」の上に、いったい何が打ち立てられるのだろう。その先にある物を認識し、何かを打ち立てることが可能なのだろうか。「実装#4」でなされたのはそうした試みの一つであっただろう。言葉は解体され、もはやそれ自体として意味のない記号の集合として、言語がまるで痙攣するかのように並べられる——「都市の縺ゅj譁ケ縺ォ縺、縺�※遘√◆縺。縺ッ蜻シ蜷ク繧偵@縺ヲ縺�k縲�」と。
もはや言葉は解体され、その意味を喪失してしまうのであれば、言葉を用いたポエトリーリーディングはきっと限界に到達してしまう。そうした限界を、私は今強く感じているのは紛れもない事実だ。「言葉に固執し続けることによって、過剰に意図を考えることによって、私は何もできなくなりつつある。」私はこの先に何を作り出していくべきなのだろうかと、ただ考えるだけだ。だから、この音楽が明確に何かを示していることは決してない。むしろ、何かの音楽が必ず何か一つの方角のみを指しているを考える前提の方が、実はつまらないかもしれない。しかしながら、明確な方向を持てない音楽が、いかにして新しさを拓くことができるのかは理解できない。従来的な反復を乗り越え、新しい創作を捜索しないと、前回のnoteで示した「初音ミクの葬送」はきっとできない。では、この音楽の唯一無二性は何だろうか。私はそれを誰のものにも還元できない、私自身の(気味が悪い)呼吸から考えていた。自分自身のものであるが自分自身ではないもの、そして自分にはコントロールすることのできないもの。それらは、脱構築された果てに出来上がる音と記号の瓦礫たちの上で、記号に変換不可能な自分自身の存在を直接、画面越しの貴方に伝えられるだろうか。それは「思考実装」という一連の音楽群のテーマとして据えたものだったはずであり、おそらく注ぎ込まれる〈美学〉でもあるのだ。
きっとこの先に到達する〈美学〉があるのなら、この音楽も意味を持つのだろう。いわゆる青い春が終わっても、まだまだ未完成なものがたくさんある。だからこそ、次に何を作るか、どうしようかを考えなければ。
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