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伝統産業の萬古焼が四日市で発展した理由。災害を乗り越えるための産業。


萬古焼がなんで四日市に根付いたか

萬古焼の歴史を調べると
だいたいが土鍋を作っているとか
この人が作りましたとか
プロダクトや創始者に関する話が多いです
しかし萬古焼を支える人たちは
多くが窯元や流通にかかわった人たちです
萬古焼を作り続けて
その歴史を知る人間として
ぜひとも知ってほしい歴史です

海蔵川の水害

私が生きている間に海蔵川は氾濫したことがありません
この川は四日市に流れる河川で
高い堤防を持っています
しかし昔は二つの川が合流していて
合流地点でたびたび水害が起こりました
この地域は今ではないですが
二毛作ができる土地です
一部農家ではコメだけでなく麦も作ってます
しかし川の氾濫が起こるため
9月以降の農業が難しい地域です

なぜ陶器

冬に農業をすることはリスクがあり
産業として注目されたのが
窯業でした
また四日市港という
東海地区で当時は名古屋港より大きい
港でもありました
ここを拠点として
作った陶器の輸出を行っていました

当時の商流

四日市では粘土の算出が少ないため
岐阜から粘土を運んで来ていました
四日市から岐阜に戻る車は
焼いた陶器を積んで
岐阜から全国に陶器が販売されました
この他にも京都から近いこともあって
清水焼の陶器部分の下請けメーカーも多くありました

大きな発展

流通の拠点でもあり
メーカーが増えたことから
一時期は5000人ぐらいの人が従事していたと言われています
四日市駅よりも
海蔵地区の阿倉川駅の方が利用者が多かったそうです

地元の小学校の校歌

私のいた頃の海蔵小学校では
黒煙は筒柱 林のごとく並び立つ
というフレーズから始まる校歌があります。
これは当時
陶器がどれくらい地域に貢献していたか
表していると思います
残念なことに今この校歌は無いそうです

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