星の祝祭を手のひらに

※2019年7月の記事です(親鸞仏教センターホームページ「今との出会い」Vol.194より転載)。

参照:映画『海獣の子供』(渡辺 歩監督、2019年6月公開)
(※以下、映画『海獣の子供』のネタバレをやや含みます)

「生命は流れ、種は自らを再生する。それは事実である。だがそれと同時に私たちは、来たるべき子どもたちに、かつて親などというものはいなかったかのようにふるまうことを教えることができるのである」(222頁)、これは加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』(NHKブックス、2007)の最後の一節である。

 映画『海獣の子供』にこの夏を飲み込まれた。この映画の主題、大きな軸の一つは何といっても「生まれる」ということであろう。我々はどこから来たのか。これが事あるごとに問われている。ジュゴンに育てられた少年、海(ウミ)と空(ソラ)……最後までその起源、どこから来たのかということは曖昧で有耶無耶で神秘的だ。いや、そこは有耶無耶でいいのだ。自己の起源はどうであれ――確かにそれは存在するのだろう――もはや生まれてしまった〈個〉はその起源を超えていくことができる(ナウシカのように闇に葬ることも可能だ)、「どこから」という根を有耶無耶にすることができる。正確には、〈生まれる〉とはそれが可能になる事態を指す言葉だ。
 そして我々は浮遊するのでもなく、自ら新たに根を張り直していく存在なのであろう。

 海と空が教える神秘的な起源。しかし、これはあくまで海から来た海と空の話なのではないか。もう一人の主人公、街に暮らす琉花はどうなのか。そのどこからともなく誕生する星の物語(強いて言えば海が生んだとしか言いようがない誕生の物語)を、宇宙を、握りしめて帰ってくるのが琉花だ。ラスト、〈生まれる〉という物語を確かに自分の物語として生きようとする琉花の眼前に広がる、海と空。ちょっと窮屈な海と空だが我々はそこを生きていくしかない――のだけれど、確実にそこには神秘の物語を携えて生きていくことができる姿がある。海と空に根を張った少女の姿をそこに見てしまった。
 映画『海獣の子供』が安易な生命循環の尊さなどを謳っていないのは明らかであると思うが、受け渡されていく隕石は、一人ひとりが星として生まれるべき存在であることが独りから独りへと伝播していく様を描いているのかもしれない。

 ――エンドロールが終わった後、母親第二子の出産に立ち会う中、生まれた子のへその緒を切る琉花はこんな一言をつぶやく。「命を断つ感触がした」――母体から切り離された赤ちゃんはまったく別物なのだ。母体とつながっていた存在は「もういない」、そう言ってよいのだ。

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