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記憶と記録に関する備忘録

写真を撮ることが嫌いだった。


自らが目の当たりにした原風景。そこにはその場においてしか感じ取れない情趣が存在する。

学生時代、部活の午後連終わりの気だるげな雰囲気を想起させる、西寄りに重くのしかかった夕暮れ。

冬の午前6時、突き刺すような風の中に朝風呂のシャンプーの香りが溶け込んだ、仄青い駅のホーム。

夏祭りの夜、花火と共に月並みな感動すらすぐに立ち消えたことだけは覚えている不可逆の青春。

視界に入る様相だけでなく、音や匂いなどあらゆる非言語的な情報が唯一無二の時空間を創り出し、もう2度とは等しく再現できない感傷を心に刻みつける。

そうやって、えもいわれぬ一回性の感動と想起するたびに陳腐な回想となる生と死が混濁した傷跡が「記憶」だと考えていたし、今でもそう思っている。

五感を総動員して自らが生きていた証拠を、誰の為でもなく綴っていくその体験には目もくれず、写真という視覚情報だけを小さな液晶越しに切り売りする「記録」という手段が、どうしても気に食わなかった。

確かに、写真という形で残された記録は思い出として語られるために、あるいは自分が体験した感動を簡潔に他者へと発信するために有効であるとは思う。また、それなりに長い人生の中で、全ての風景を記憶に残して置けるほど人間の脳の容量は大きくない。

しかしながら、一度記録に残せば後からいつでも感動のハイライトを刹那的に摂取できてしまう。そのような行為に慣れてしまえば、その原風景を撮ったときの原初的な感動を全て忘れて
しまうのではないかと思った。

そのような「不可逆性の失墜」が怖くて、記録という行為に二の足を踏んでいた。

一方で、上述した傷跡を負ったとき、誰かに共有してたまらない本能に似た衝動を抑えられない自分もいた。

その葛藤と自己嫌悪に悩みつづけた結果、一つの暫定的な解に辿り着いた。

それは「記録と共に記憶を誰かと刻む」ことだった。

自分が記憶に刻みたい原風景に遭遇したとき、いの一番に分かち合いたい人の為だけに写真を撮る。あるいは、そのような人と同じ空間に坐し、二人だけの語られない歳月の轍として記憶と記録に残す。


二者択一ができないのならば、いっそのことどちらも選択してしまう。ただし他の誰のためでもなく、大切な人の為に今までの境界線を踏み越える。

そんな灰色の選択肢を、自らの矮小な矩を超えて選べたことでまた少し楽になれた気がした。


写真を撮ることが、少しだけ好きになった。

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