文章を書くとき_レトリックは避けられない

文章を書くとき、レトリックは避けられない

『レトリック感覚』という本を読んだ。この本を読んだのは、もちろんレトリックというものについて考えたかったからだ。

一般にレトリックというと悪いイメージがあるだろう。比喩とか暗喩を用いて他人を騙すイメージだ。一方で、小説や詩などでレトリックが使われることを悪く思う人はない。これはレトリックが「他人を説得するための技術」「芸術的表現の技術」という2つの側面で用いられてきたからだ。これらのうち、後者は無害だから特に問題視されない。だが前者は、他人を自分の側に引き込むために用いられることが多く、また「レトリック」と呼ばれるものの代表例でもあるため、否定される傾向にある。実際、文豪や大哲学者といった人々のなかにはレトリック否定を公言していた人もいる。

しかし、実際のところ、芸術以外でも文章を書くうえでレトリックは必要なのだ。

著者はここでレトリックが持つ3つ目の側面を指摘する。それはつまり、「私たちの認識をありのままに表現するための技術」としてのレトリックだ。これが本書の主題であり、ほかの部分はレトリックの種類に関する説明となる。

で、僕自身の感想を述べよう。

僕自身、一時期はレトリックを嫌って、できるだけ使わないように文章を書こうとした頃がある。が、どうしても行き詰まってしまった。というのも、認識とか精神といった主観的なことを表現するためには、レトリックが必要だからだ。レトリックを禁止して書こうとすると、どうしても「自分のなかにあるものが表現できていない」という状態に陥ってしまい、息苦しさを感じる。水中で喋ろうとしても言葉にならないのと同じだ。

というわけで、著者の主張には全面的に賛成する。

一方で、他人を騙すため、扇動するためにレトリックを用いるのは邪悪だとも思う。

結局のところレトリックも道具であり、使う人次第で良くも悪くもなる、ということだろう。


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