愛の話。

7日間チャレンジの3日目。前回、信仰の成長について書きました。では、成長というけれど、何に向かって成長していこうとしているのでしょうか?

禁欲を徹底し、一切悪事を働かず、いつも穏やかな笑顔を絶やさず、敬虔で、誰からも模範とされるような、そんな姿を目指しているのでしょうか。

ハッキリ申し上げておくと、僕はそうなろうなどと思ったことは一度もありません。残念ながら、それを求められた時点で、そんなもん欠けだらけの僕には絶対無理、と諦めてしまいます。かなり批判されるのを覚悟で言いますが、僕はももクロもNiziUも大好きな、ガールズグループにハマりがちな普通のおっさんです。飲み会も含め、楽しい場所は大好きです。学生時代のニックネームは「アホの田中」ですが、そこからもわかる通り、思慮深さとは対局の浅はかな人間です。人一倍ガサツで口も悪いほうです。部屋は散らかしっぱなしでいつも妻に叱られてばかりです。(もちろんいつも反省し改善したいとは思っています!汗)

そんな僕が、突然、俺、マザー・テレサを目指しますなんて言ったところで、なれるわけないわけないどころか、こいつは頭がイカれてるんじゃないかと思われてしまうわけです。

じゃあ、どんな姿を目指して成長していこうというのでしょうか。

実は、かつて教会で子どもたちに聖書のことを教える教師を任命されて、多少模範的な振る舞いをしなきゃと思って生活しているうちに、しんどくなってしまって、今までたった一度だけですが、もうクリスチャンなんてやめてやる!教会なんて行かない!と思ったときがありました。

それは、いつかのクリスマスの時期でした。クリスマスって、もちろんイエス・キリストの生誕のお祝いです。でも色々としんどくなって、もう無理、もう嫌だ、心からそう思ったんです。ああ、ここにいちゃ駄目だ、教会もうやめよう。そんなふうに思ってしまって、それで、教会の総会っていう、大事な行事をサボりました。人数が少ないから出て欲しいと言われても、いや用事があるんでなんて言って、帰ったのです。

用事があるってのは嘘じゃなくて、その日の午後、別の教会で、僕の妻がクリスマスコンサートに出演することになっていました。僕はそこに行く予定にしてたんだけど、その教会に近づくにつれ、なんか足取りが重くなっていきました。あれ、俺何してんだろ。教会さぼってきたのに、なんで教会に向かってんだろ。笑

そこの教会の人に会って、なんて挨拶したらいいんだろうか。いかにもクリスチャンっぽく、クリスマスおめでとうございます〜なんて言って入っていったらいいんだろうか。いやだなぁ。こんなダメなやつ、教会なんていけない。

そこでようやく、ふと、気づいたんです。あれ?教会ってなんだっけ。イエスはこう言われました。「私は正しい人ではなく、罪人を招くために来たのです。」罪人が行っちゃいけない教会ってなんだろう。教会ってそんなんじゃねーだろ。開き直って、ようやく決心できました。よーし、堂々と行ってやろう。

そのあとのクリスマスコンサートで、僕はもう一度イエスと出会う体験をしました。メッセージ、音楽、全てが自分に向けて語られているようで、涙が止まりませんでした。こんな大男が最前列でボロボロ泣いてて、きっと出演者さんたちは驚いたことと思います。

聖書は、イエスが生まれたときのことをこのように語っています。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(コリント人への手紙第二 8章9節)

主は富んでおられた。これは、イエスは神の子で、神様の家で富んでいたということです。あなたがたのために貧しくなられました。これは、イエスが家畜小屋の飼い葉桶で生まれたことと関係があります。飼い葉桶というのは、家畜の餌を入れる入れ物のことです。ちなみに、以前どこかの牧場で、牛舎の中に行ったことありますが、とんでもなく臭かったです。牛って1日に200リットル、お風呂桶一杯分のよだれを出すそうです。ずっと何か噛んでるし、よだれが垂れまくってるわけです。イエス・キリストは、そんな臭くて超汚い、家畜小屋で、飼い葉桶の中に生まれた。これが「あなたがたのために貧しくなられた」ことをよく表す出来事です。

イエスはなぜ、わざわざこんな貧しいところに生まれる必要があったのか。聖書に書かれている、有名なイエスの生誕物語を少し読んでみると、その答えが書かれています。

まず、天使が羊飼いのところに現れました。そして、こういうのです。「飼い葉桶に寝ているみどりご(赤ん坊)を見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。」ここで天使は、「飼い葉桶に寝ているみどりご」が「しるし」だと告げています。「しるし」というのは、夫婦喧嘩の仲直りの「しるし」にエステや高級チョコレートを贈る、といったように「証拠」というような意味ですよね。聖書で神様が与える「しるし」は、エステでも高級チョコレートでもなく、きったない「飼い葉桶」だというのです。

これは一体何のしるしなのでしょう。聖書には、イエスの生誕を世界で最初に告げられた人たちが羊飼いであったと書かれています。羊飼いというのは、野原で羊の世話をする仕事の人たちで、汚い服を着た人たちでした。そればかりか、羊飼いは当時の社会を支配していたユダヤ人たちから軽蔑されていました。ユダヤ教は儀式を重んじるため、羊の世話のためにきちんと礼拝を守ることができない羊飼いなど、許せなかったのです。

つまり、どこにも居場所がない、はみ出し者の、軽蔑されてた羊飼いたち。「あぁ?礼拝?そんなん行ったことねーよ。神?俺たちには関係ねーよ。」そう言う羊飼いたちに、天使が真っ先に語りかけるわけです。

「飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。その方こそ、あなたがたの救い主です」「あなたがたのために救い主が生まれました。家畜小屋の飼葉桶に。」

家畜小屋など、羊飼いたちにとっては自分の家も同然です。何も綺麗な服に着替えなくても、何も難しい儀式をしなくても、そのまんまの格好で、会いにいけるのです。羊飼いたちは言います。「そんな救い主だったら、会いに行ってみようぜ。」

そして彼らは、イエス様を礼拝した世界で最初の人たちになりました。もしイエス様が宮殿で生まれていたら、どこかの偉い人の家で生まれていたら、一生羊飼いたちは、俺たち関係ねぇし、と言ったままだったでしょう。イエスは、社会でのけものにされて、神なんて関係ねーよと思ってた羊飼いたちが、そのままの格好で入れる家畜小屋で生まれたんです。

このことは、神様が僕たち一人一人のことをどれだけ愛しているか、そのことの「しるし」です。僕たちの心は本当に汚いです。洗礼を受けて救われても、どれだけいいクリスチャンになろうと努力しても、どうしようもないぐらい汚い。だけど、そのままでいい。そのままで、会いにおいでよ。そんなあなたたちのために、イエスは貧しい姿で生まれたんだ。そんな風に、神様が語っている。この神の愛を噛みしめて味わうことができたとき、僕の心からは、クリスチャン辞めてやるなんて気持ちはすっかり消えてなくなってしまっていたのでした。

神が人を愛するように、自らを低くして人を愛して生きる。少しでもそんな生き方ができるように、成長していきたいと願っています。その結果、恐らく今の自分のままではいられなくなるでしょう。そのときは、自然と冒頭で述べたような姿になっているかもしれませんし、なっていないかもしれません。でも別の誰かのようになるのではなく、僕は僕でしかないはずです。多分違う考え方の人も沢山いらっしゃると思いますが、僕にとっての信仰の成長の話を書かせてもらいました。

今日も、最後まで読んでくださってありがとうございました^^



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