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核家族を乗り越える概念。

社会的潔癖症というものが、我々の身体には根深くはいりこんでいる。
それをくつがえすには、新たな概念が必要ではないか?というお話。


※このnoteは、Podcast番組「漫画とうごめき」で語っている言論部分を文章化したものです。漫画とうごめき本編は、最下段のリンクからどうぞ。


社会的潔癖症

人は生きてきた社会のなかで培った経験をもとに、倫理観などの価値観を形成する。
形成された価値観の中でも、生理的なレベルで影響するものを「社会的潔癖症」と呼んでみる。

社会的潔癖症は、社会によって様々なものがある。
単純化していうなら、中世一神教的社会での異端への反応、中世日本なら武士道を全うしない軟弱者への反応などか。
現代社会でいうなら、貧困への反応とかになるのかな。

多様性やインクルーシブな世界観を謳いながらも、各個人には目には見えない社会的潔癖症というものが潜んでいる。
これは、理性によってある程度制御できるものであると思うが、いわゆるブラインドスポット、無意識下で発動しているものには、気づきもしないのだろう。

この社会的潔癖症は、さまざまな影響が想像できるが、その中でも社会の実態への対応を遅らせる影響があると思う。

家族という概念

近代社会で家族という概念はよりドメスティックなものになったと思う。
いわゆる核家族の概念だと思うが、家族という社会の最小単位は、内側に閉じられていて、内側で完結することを求められる。
社会に開かれることは好まれない。

たとえそれが社会の実情的には、成立させるのに大量のコストが必要となり無理ゲー化していたとしてもだ。

いわゆる複数の家族で生活の境界を越えて大家族のように生活する。
この様子は、近代社会においては田舎的で貧しさをイメージさせるものだと思う。
逆に、都会で暮らす核家族としての生活というのは、どこか各々に独立している近代人の基準的なイメージを持たせられる。
まあ、この視点にも十二分にバイアスがかかっているとは思うが、なんとなくイメージできるんじゃないかと思う。

しかし、核家族であり続けるのは、現代社会ではかなりしんどいと思う。
それよりも、複数人で住む場所や生活の一部を共有する、いわゆるシェアリングエコノミー的な生活のほうが現実的な対応だと思う。

しかし、そんな生活をしているのは少数派であるし、実際にシェアハウスなどに住む人もほとんどが単身者である。

最近だと、拡張家族やシェアリングエコノミーという概念が市民権を得てきているが、どちらかというとキラキラしている流行りものとして捉えられているか、60年代から続くヒッピーの一派として見られることが多いように思う。

ただ、キラキラしているのがダメでもヒッピーがダメとも言っているわけではない。想像力の乏しいカテゴライズでレッテル化しているのが問題だといっている。

そのレッテル化する視点や、現状の無理ゲー状態でもなお無意識的にそれ以外の選択を選べないのは「社会的潔癖症」が影響していると思う。

概念を変える

人は自分の中にある概念によって社会を認知している。
社会的潔癖症を覆すには、その概念自体を変える必要がある。

新たな概念を強い情動と共にインストールするのだ。

もちろん法整備や新たなサービスなど、地道に社会的機能を変えていくことも必要である。
それと同じくらい概念を変えることは重要だと思う。

僕は社会というものを「うごめき」という概念で認識しようと考えている。
正直理論はまだ出来上がっていないが、感覚的にはこの「うごめき」で社会を認識できている気がする。

人は複合的なうごめきに存在し、うごめきから自己と自己以外を分けることで、自分自身を認知している。
我々はうごめきなのだ。
そう考えるなら、家族という単位で閉じる意味は無い。
心配しなくても人は個に閉じられているのだから。


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