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息抜きとしての外国語

そんなことやってる場合じゃないでしょ、トルコ語(またはアゼルバイジャン語)の原稿をやりなさい的状況が続く私でございますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

タイトな時期に限ってなかなかモチベーションが上がらないというのもこれまた定番ですが、機運が高まるのを待つ意味もかねて、違う言語の本を手に取ってしまうというのもよくあることです(ないですか?)。

こういうとき、いわゆる『ニューエク(+プラス)』シリーズの存在のありがたさを感じます。所用で市内中心部に昨日もでかけていたところでしたが、書店に立ち寄ってしまうのは仕様ですよね。

長崎の大型書店、語学書のコーナーには正直どこのお店にも若干不満がありますが、まあ仕方がないことなのでしょう。純粋にセールスの問題があるのでしょうし。なかなか「その他の外国語」のスペースが拡張されることはないですね…世知辛い世の中だよホントに…

さて、その「その他の外国語」にかろうじてトルコ語の語学書があるのにやや安ど感を覚えつつ(長崎の人たちは、今こそトルコ語をやるべき説を提唱しておきますよね!!)、本当にあまり考えずに衝動的に手に取ったのが今回はオランダ語だったというわけです。

長崎と言えばオランダ語だなそういえば…?とかいう、そういうノリです。長崎歴史文化博物館に一度行った際、常設展示での蘭学が盛んだった時期のコーナーがとても興味深かったというのも頭のどこかに残っていたかもしれません。

純粋に外国語に携わるものの端くれとして改めて江戸時代から明治あたりにかけての長崎の話を聞いていると、説明しがたいのですが刺激される何かがあるような気はするのですよね…

ということで、オランダ語です。noteを書き出してから、我ながら実にいろいろな言語に目が行ってしまっておりまして、ペルシア語どこに行ったんだ、アラビア語いつやるんだ、ロシア語やってねーだろテメー、とさまざまな声が聞こえてきそうな昨今ですが、それはまあおいといて。

ペルシア語、ロシア語などはまだ今後の自分の本職たるテュルク語学を進めていくうえで重要度が高いと考えられるのですが、オランダ語などについては完全に趣味の領域になってしまいます。ええこれは。もう。間違いなく。

ニューエクで言いますと、エスペラントやグルジア語(グルジア語も使用地域がトルコ語、アゼルバイジャン語に近いので本来なら需要を感じてもいいのですが、ここではそのことについては考えないことにしましょう)などに課金してしまうのと同じことですね。直接的には、何も寄与しません。

しませんがしかし、と思うのです。
自分にとっては結構重要な「息抜き」の部分もあるのかなと。それこそ授業や講座などではほぼほぼトルコ語の膠着語的構造の話なり文の構造の話をしていくわけですが、まあこんなことを言うと同業のみなさまに怒られそうではあるのですが、一定期間が経つと飽きちゃうんですよね。

あれと似ています。将棋で、一つの作戦というか戦法をずっと勉強していくことは大事なんだけど、毎回同じ戦法を選択しているとある時期に突然飽きてしまうということがあるでしょう(わかりにくいです?)。あんな感じです。

だからペルシア語、ロシア語は言うに及ばず、またテュルク諸語とも全然違う雰囲気をもっている外国語にある日ふっと目が行くときというのはあるのですよね。で、たまたま昨日あたりがそういう時期だったということです。

ウクライナ語の語学書がもし昨日書店で目に留まっていたら、そっちを買っていた可能性もなきにしもあらずでしたが残念ながらそちらは昨日は見かけることもなく。

ということで、長崎人なんだし、オランダ語のさわりだけ見ておいてもバチはあたるまいよ、と言いながら。やる予定もないオランダ語がまた本棚のニューエクが並ぶところに追加されたという次第です。オランダ語もラテン文字を使うようでそれは何よりなのですが、発音がまあまあ大変そうだなという初見の印象。

あと、なんというんでしょう。活用(屈折)のパターンがすごそうだなという。これ、オランダ語を身につけなければいけない立場となればなかなか苦労するのでしょうねえ。トルコ語などとは全然やり方が違うだろうなということだけはわかりました。そうそう、これこれ。そういう変化パターンをちょっと見てみたかったのですよ。

トルコ語の講座のほうでは先日可能形だということで-ebil/-abilを使って"öğrenebilirsiniz", "çalışabiliriz"(それぞれöğren-ebil-ir=siniz(学ぶ-可能-中立=2人称複数;「君たち/あなた/あなた方は学ぶことができます」)、çalış-abil-ir=iz(働く-可能-中立=1人称複数;「私たちは働くことができます」を表す語形になります)といった語形の導入をやったところだったのですがね。これももう、「ほらトルコ語ってねえ?単語長くなりがちでしょ」とかずっと言ってても飽きてしまうところってあるんですよね。

そんな膠着語に一瞬飽きた身にとって、「英語のbe動詞に相当」するらしいオランダ語の動詞zijnが、人称・数(または性)ごとに現在形で全然違う語形になっているのとか、最高すぎるでしょう…?見てくださいこれ。

ik ben 私は~です
jij bent 君は~です
het is それは~です
wij zijn 私たちは~です
zij zijn 彼らは~です

川村三喜男・佐藤弘幸『ニューエクスプレスプラス オランダ語』
(白水社:2019年)p22より抜粋)

なにこの変化パターン!ほんとに英語のbe動詞みたいじゃん!?という。

いやそれはもう、このあたりの言語に詳しい人なら「はあ?今さらなにを」でしょうけど。そんなみなさんが、トルコ語で一文にほぼほぼ近い内容のことを場合によっては単語一つ(本当は付属語も複数入っていることが多々ありますが)で表されるのを見るのと同じ気持ちなのですよ。きっと。たぶんね。

Avrupalılaştıramadıklarımızdan mısınız?
(Avrupa-lı-laş-tır-ama-dık-lar-ımız-dan=mı=sınız?)
ヨーロッパ-派生(~人)-派生(~化する)-使役-不可能-形動詞-複数-1複-起点格=疑問=2複
「あなたは私たちがユーロピアナイズすることができなかった人々の中の一人ですか?」

トルコ語の膠着語的性格を例示するのによく出てくる例です。
もしみなさんがこういう(もちろんこれはかなり極端な例ですが!)のを見ておお~、と思うようでしたら、我々テュルク諸語民も同様に、「~である」的な動詞が人称・数・性でまったく原形をとどめない語形に変化するのを見て「おお~」となる…ということですね。たぶんそういう感覚です。

かようにして、屈折語の気分を味わったならば。またトルコ語に戻っていきますかね…みなさんも自分のメジャーに飽きたときのための、マイナーを用意しておくといいですよ…。気分転換にオススメです(だがトルコ語のやる気が戻ったとは言っていないことに注意!)。

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