見出し画像

第1章:アンカラ生活のスタート

仕事のスタート

バスでアンカラに正午ごろ到着し、そのまま大学へ直行して契約書にサインして、すぐ着任となりました。その日は結局夕方まで職場にいたのですが、何をしたかは覚えていないです。

とりあえずここが机、ここに本などあったら置いて行きなさい、等々のレクチャーを受けたとか、記憶はさすがに時間が経ちすぎて今はあいまいになっています。ただ、とにかく疲れたことだけ覚えています。

そりゃそうです。当日早朝から移動に移動、そのまま契約書にサインしたりなど、それなりに緊張する場面もありましたから。ひとまず予約していた宿に泊まって、その日は熟睡。

さて翌日からは、だいたい10時ごろに職場に来てくれていたらいい、くらいのことを言われていました。12月中旬はトルコでは秋学期も後半。ものすごい中途半端な時期からの仕事開始となってしまっていました。本格的に自分の名前で授業を担当するのは次の春学期(2015年2月中旬)から。

ただ、それまで遊ばせておくのも…ということだったのでしょう(こっちだて何かしないと気まずかったし)。いくつかの授業の代講などが入っていたので、かなり早い段階で授業をしに行ったのを覚えています。

初回というのはただでさえ緊張するものですが、なんせ多少勝手知ったる土地とはいえ、外国で本当に日本語教育の現場に初めて立ったときのあの緊張感たるや。

ただ、初めて入った授業は4年生の授業で(おそらくこれは学科長が配慮してくださったと思う)、日本への留学を終えてトルコに戻ってきていた学生がたくさんいました。彼らには相当授業の雰囲気をうまく作ってもらったことも含めて助けられました。

授業は、日本語とトルコ語を両方使うという感じでした。自分にとっては、トルコ語を使う割合が(当たり前ですが)日本にいる時より格段に増えますし、いい淀みが明らかに増えてきます(その度に聞き手に訂正してもらったり教えてもらったりする)。30代後半にして、再び留学してるようなもんだよな、と思ったことがあります。

いや、留学ならまだ気分的に楽(諦めたら帰ろうと思えば帰国できる)ですが。そうじゃないのが仕事として来た身のきびしいところ。授業外でも、職場での人々とのやりとりは(当然)トルコ語になります。日本語との切り替えが頻繁に起こるということで相当脳が消耗していたのを覚えています。

夕方(後述の)寮に戻ると、もうぐったりしている…最初の週末、当時のメモ書きによれば、12月20日は「爆睡した」と書いてありますから、ほんとに爆睡したんでしょう。昼過ぎまで起き上がれなかった記憶も蘇ってきます。なんせ、前日のツイートがこれですもん…

それまでも日本でトルコ語を使う仕事はしていたので、ある程度はなんとか自分もやれるだろう…(インシャッラー)と思っていましたが、そんな小さなプライドなど、現場では当然何の役にも立つわけがありません

「力不足」を一日中いたるところで痛感させられながら、ホントにここで自分はやっていけるんだろうか。やたら不安でした。着任初期は毎晩高確率で、職場での悪夢のようなものを見ていました(つまり、私は繊細な性格だったのです)。

ここでは書けないような内容もありますが、一番きつかったのは同じ学科の同僚の不興をかう夢をみた時で、「おまえ明日からもう仕事来なくていいよ 日本に帰れ」と言われるという(再度念を押しますが、夢で、です)。

なお同僚の名誉のために書いておきますが、その同僚はそんな冷たい人ではまったくございません。そんな人が夢の中でそんなことを言うということは…?まだ職場の当時の状況を正しく認知できていなかったということだったのかもしれません。

全て、今振り返れば、という類の話です。

ともかく日が経つごとに、大学でのいろいろなことが理解できるようになっていきます。自分の今経験していることはメモにとっておかねば、と思って最初の数週間は何が起こったかをノートにいろいろ書いていました。

しかしそれも、そのうちどんどん書かなくなっていきました。2週間程度でメモ書きはなくなっています

書くのがだんだんおっくうになってきたということに尽きるんでしょうけど、書かないといけないと思ったことがなくなっていったという慣れによる部分もあるのかなあという気がしています。実際、日本ではないと困っていたシステム手帳、あちらではほとんど機能していませんでしたし。

ああ…それにしてもこうやって振り返ろうと思うと、当時の記録を途中でやめたと言うのはつくづくもったいないことでしたね。

ということで、当時のことはツイッターや写真から掘り起こしていくことになります。さらに内輪向けのメッセージは、当時のフェイスブックのほうがかなり雄弁なようです。このあたりから思い返していくことにしますか。

…と思ったら、ツイッターは…当時ろくなこと書いてないな…ダジャレばっかりやん…(まあ今もだが)

それに、特に着任して最初の時期、(私にしては)極端にツイートが少ないです。これにはいくつか理由があって、そのうちの一つはネットに接続できる環境が整うのに時間がかかったということ。きわめてシンプルな理由ですが、それが最大の要因です。

間違いない。職場で自分にパソコンが支給されたのは少し時間が経ってからだったし、後述の最初に入った大学の宿泊施設も、wi-fiに接続できるまで大学からパスワードとIDをもらうのを待たないといけなかったのです。

(なるほどこうやって書いていくと、次から次に当時のことを思い出していくものですね…)

生活のスタート

仕事のスタートと連動するようにして、生活のスタートも急いでやる必要がありました。当然のことながら生活(衣食住のうち、特に「住」)の基盤がひとまず落ち着かないと、仕事もうまく進むわけはありませんから。

とりあえず真っ先にやらないといけない、と言われたことを思い返すと…

1. 携帯電話の契約(これはトルコではかなり重要。何かを申し込むときに、なにかと携帯番号が必要になってくる)
2. 居住場所の確保(ひとまずは学科の先生たちが手配してくれたので、落ち着いたらどこか賃貸マンションに引っ越そうと考えていた)
3. 銀行口座の開設(これをやらないと肝心の給料がもらえない!)
4. 衣服の補充(日本からは必要最低限のものだけしか持ってこなかった)

一応、アンカラに着いた当日だけはあらかじめ宿を予約で取っていましたが、それ以降のことはまったくの白紙。現地に直接来ないとどうにもならないことばかりだったので、多少は覚悟してはいましたが…

ただ、大学の同僚の先生が、教員も入れる大学の個人寮に入る手配をしてくださっていて、あとは私本人が直接そこへ行って、いろいろと書類にサインすれば入居できるというところまでやってくださっていました。

画像1

(掘り起こしました。なつかしい当時の宿泊施設の建物だ!)(なぜこんな遠くから撮ったのか自分!!)

これのなんとありがたいことか。

以前学生としてアンカラに短期留学した時、最初の2週間弱ほどでしたが予定していたアパートになかなか入れず、しばらく安宿に連泊していて不安だったという経験をしたことがありました。

本当に何から何までやってくださっていたのだな、ということが今振り返ってみても理解できます。

ちなみに最初の給料をもらったのは、年明けて1月15日。

着任して間がないので、振り込まれるかどうかはわからないね、という話が同僚からはありましたが、おそるおそる銀行の残高を見に行ってみたら、1ヶ月分入っているのがわかりました。(金額?いやさすがにここではちょっと…)

記念すべきトルコでの初給料、それなりに感動しました(たしか。たぶん)。新天地で多忙になっていて、職場の雰囲気にもそれなりに適応するのに苦労した(当時の自己評価では、ですが)ので、感激もひとしおだったのではないでしょうか。

そんなわけで、着任二日目からは大学の宿泊施設での生活が始まりました。真っ先に生活必需品をスーパーや市場(パザル)に買いに行きます。タオル、湯沸かし器(これさえあればコーヒー飲めますから!)、皿、コーヒーカップ、スプーン、フォーク、そして何よりタオル!

やることは日本での引っ越しと全く同じです。違うのは、日本語を使うかトルコ語を使うかだけ。しかしこれも馬鹿にはできません。振り返れば、自分に抜け落ちていたトルコ語の基礎語彙を獲得する重要な時期だったと言えます。

画像2

(画質悪いですが、当時の近所にあった、公設市場の一角。ここで日用品を一通り揃えたことでした。だいたいのものは手に入りました)

画像4

(その市場の周辺にある軽食屋で、ドネルケバブサンドをほおばるのが週末のルーティーンでもありました。もっとも、最初の宿泊施設にはそれほど長居しなかったんですが…)

洗濯機は宿泊施設備え付けのものを使えました。洗剤は自分で用意することになっていましたが、これはありがたい(ただ当時施設には女性も住んでいて洗濯機を男女問わず共用していたので、目のやりどころには用心させられました)。

自分のパソコンはつなぐのに時間がかかったものの、施設備えつけの共同使用用のパソコンがあったので、そこから空いている時間にネットでSNSには書き込みしていたと思います(OSが古かったのはかなり怖かったですが、まあこれは仕方ない)。

そのうち、服も近所で買い揃えてそれなりに揃っていったので、これはなんとかなりそうだわ…と思っていましたが…やはり不満は出るもので。

当時メモ書きしたのは、水が茶色いなということと、すぐブレーカー落ちちゃうな(これも仕方がなくて、その時電気ケトルが瞬間的にものすごく電力を使うんだと言うことを学んだくらいには知識がありませんでした)、ということ。

あとは、トイレの水流が弱いなということでした(これはすぐ解決してもらった)。水まわりに関しては、アンカラに住んでいると避けようのないことだった(たとえば水に関しては、水道管が古いと当時住んでいたところに限らず水が濁りがちだった)と思います。

ともかく気づいた翌日そのあたりのことを同僚に話すと笑われて「慣れろw」(パワーワードすぎる!)と一蹴されるということではありました。水道水に対する考え方というかアプローチは、日本と比較するとかなり違うものになるなと理解した日でした。そう、ここは日本じゃないのだよと。飲料水は別途購入するというのがトルコの常識。

そんな中、かなり早い時期に、普通のアパートに引っ越そうと決意してしまったのでした。今思い返しても無謀でしたかね…

ただ、春学期が始まる前に動いたほうがいいんじゃないかとも思っていて、人間そう思い込むと周りの助言はあまり聞かないものです。1月3日には単身不動産屋に乗り込んで、引っ越し先を決めてしまっていました。

とにかく寒かったこともついでに思い出す、アンカラの最初のころの日々です。

画像3

(市街中心地が見下ろせるところの近くに住んでいました。赤レンガが印象的なアンカラの街並みです。)

(次回に続く!)

記事を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。Çox təşəkkür edirəm! よろしければ、ぜひサポートお願いいたします!いただいたぶんは、記事更新、また取材・調査のための活動資金に充てさせていただきます。