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今も故郷に帰れない富岡町民に聞く:6年以上 何も変わらない 知らぬ間に自宅は壊され政治家もマスコミも被災者を黙殺 事故直後より今の方が怒りが湧いてきた


 前回の本欄で、福島第一原発事故による放射能汚染でできた「立入禁止区域」と「帰還可能区域」で街が分断された福島県・富岡町の2017年10月の姿を写真で報告した。

 では、その立入禁止境界線の向こう側に家があり、今も帰れないままの人たちは、どうしているのか。どこに住み、どんな暮らしをしているのか。何を感じ、何を考えているのか。それを今回は報告する。

 私が話を聞きに行ったのは、富岡町のJR夜ノ森駅東側(現在も立入禁止区域)に住んでいた西原千賀子さん(69)・清士さん(65)夫妻である。西原さん夫婦は、故郷から約70キロ南にあるいわき市泉玉露にある仮設住宅(注:巻頭の写真)で、原発事故から6年8ヶ月が経った今も避難生活を続けている。2017年10月17日にその仮設住宅を訪ね、約2時間半お話を聞いた。


 先に、私が避難者の人たちを取材するときのやり方を説明しておく。

 (1)同じ人に繰り返し何度も会って話を聞く。

 その方が、原発事故以来の避難先、心境や体調の変化、身体や精神の疲労、家族の消息(進学した、卒業した、就職した、結婚した、引っ越した、など)を時系列で綿密に知ることができるからだ。避難生活に疲れ果て、汚染を承知で地元に帰った人もいる。そうした人にも会いに行く。一種の「定点観測」である。

 そうした取材先の中には、原発事故直後の2011年4月〜9月にかけて、元々の故郷である南相馬市や、避難先の山形県で出会った人たちが多数含まれている。会わなくても、メールやSNSで連絡を取り続けている。

 また、事故から7年近い歳月が経ち、避難者も初期のころの記憶が曖昧になり始めている。私はそのころから記録を取っているので、本人が曖昧にしか思い出せないことでも、理解している。また、そうした過去の話は聞いているので、取材先も「また避難の話から一からしなくてはならないのか」という負担感がない。

 そうした交流を長年続けていると、次第に「取材記者と取材先」という関係が和らぎ、相手も本音を話してくれるようになる。避難者に限らず、原発事故の被害に遭った人たちは新聞・テレビなど「マスコミ」への警戒心が強い。これまでの経験で「被災地は順調に復興している」「避難者も挫けず元気にしている」などの「あらかじめ用意したストーリー」に当てはめようとすることを知っているからだ。「元気です」「お世話になってます」といった「建前」で話が止まってしまい、なかなか本音を話してくれない。家族の間の意見の不一致や軋轢、子供が学校でいじめられた、などの深い話は、つきあいが数年に及んで、初めて話してもらえるようになった。

 西原さん夫妻とは、2015年1月に出会った。避難者の支援をしている関東在住のボランティアに同行して、仮設住宅のもちつき大会を取材したときにお目にかかったのである。



(上3点は2015年1月10日、いわき市泉玉露の仮設住宅での餅つき大会)

 夫妻は、仮設住宅の自治会役員のような仕事をしていた。千賀子さんは、原発事故までは高齢者介護施設で働いていたので、お年寄りの世話にも心得があり、仮設住宅の老人たちの世話を積極的に引き受けていた。同じ富岡町から避難してきたといっても、まったく違う地域の人たちがお互いを知らないまま「ご近所さん」になった。老人たちが孤立しないようにと、週数回集まってお茶を飲みながら話す「ほっこりカフェ」を開いていた。

 それがきっかけになって、同年2月の富岡町への一時帰宅に同行させてもらえることになった(関連記事はこちら)。夫妻の車に乗せてもらい、立入禁止のゲートをくぐってご自宅に行った。雑草に埋もれ、室内も雨漏りでカビだらけになった「わが家」を見せてもらった。自分の家なのに、一回5時間しか入れないこと、その頻度も数ヶ月に一度であることを知った。ゲートで線量計や防護服を渡され、出る時は靴底やタイヤを線量計で測る「スクリーニング」も一緒に経験した。

(2)「記者が言いたいこと」を取材相手に言わせるための取材をしない。

 フクシマの被災地では、新聞やテレビの取材と行き会うことが多い。同業者の仕事を横で見て、さらにその成果である記事やニュース番組を確認して、気づくことは、記者が「自分が被災者に言わせたいこと」を言わせるよう誘導するための質問をする、ということだ。「言わせたいこと」とは多くの場合「避難先で元気に暮らしています」「復興は順調です」「汚染された故郷に帰っても健康に異常はありません」などの「ポジティブなバイアス」がかかった話が多い。あるいは選挙前には「X選挙の候補者にはYを望む」だったりする。

 私はできるだけそうした質問をしないようにしている。相手の意思に任せ、その話したいことをまず聞いて、話をこちらの意図で誘導しないようにする。被取材者も、話しているうち、に忘れていた記憶や感情を思い出してくることもある。相手の都合が許す限り、できるだけ時間を長くとって、焦らず、じっくりと話を聞くようにする。

 下に記すインタビューも、編集は最低限にとどめた。意味がわかりにくい部分や、繰り返し・重複を最小限手直した以外は、話の流れや順番は録音の書き起こしそのままである。背景開設が必要が部分には(注)を付け、資料がネットにあればリンクを張った。

 2年8ヶ月ぶりに西原さん夫妻に再会してみると、やはり多くの変化があって驚いた。
*櫛の歯が抜けるように、仮設住宅に空き部屋が目立つようになった。しかし富岡町に住民が帰っている様子もない。彼らはどこに行ったのだろうか。
*一時帰宅で一緒に訪ねた富岡町の「わが家」は、家主の意向で、西原一家の知らない間に潰されてしまった。中にあった数々の家族の思い出の品もすべて捨てられてしまった。
*精力的に仮設住宅の住民の世話や、よそから被災地を訪ねてくる訪問者に避難や被災の様子を伝える「語り部」活動を続けていた千賀子さんが、疲れ果てていた。取材日も、手術の入院から帰宅する日程に合わせて設定した。

 2017年10月現在、西原さん夫妻のように避難生活を続ける人は約5万4000人いる(福島県・復興庁調べ。県外3万4587人、県内1万8717人)。

(写真は特記のない限り2017年10月17日にいわき市泉玉露の仮設住宅で撮影)

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