夜2B

その子守唄はやめておけ

 去年のちょうどいまごろ書いた文章が、ハードディスクから発見された。書いたきりどこにもアップしていなかったので、この機会に載せておこう。
 1年前、わが娘コケコは1歳5カ月だった。幼児と暮らしていると、たった1年でも「懐かしい」というには充分な時間である。ああ、こんな時期もたしかにあったなと思う。以下がその文章だ。

* * *

子守唄をなにか

 なにか1曲でいいから、決定的な子守唄が欲しいと思っていた。
 昼食を食べさせたあとのひととき。あるいは夜、妻が風呂に入っているあいだ。わが娘コケコをあやしながら、僕は鼻歌をよく歌う。ああ、こんなときだ。コケコが眠そうだなと気づいたそのとき、その1曲を歌ってやれば高確率で入眠してくれる、そんなキラーチューンともいうべき(というのか?)麻酔のような魔法のような子守唄はないものか?

 自分自身の幼少期を振り返ると、物心がついて最初の子守唄は『ブラームスの子守歌』だった。幼稚園の「おひるね」の時間に先生がピアノで弾いてくれた。そこに「ねむれ ねむれ おやすみやすらかに」という日本語詞(今回調べてみたがこのバージョンの作詞者が分からなかった)が乗る。悩みなんて何もない時代の幸せな音楽。いまでもこの曲を聞くと、昼下がりの光に包まれるような心持ちにすこしだけなったりもする。欲しいのはそういう1曲だ。それをコケコの原体験に刷り込めたらいい。

 先日、仕事の映像資料として英国のデパート「JOHN LEWIS」のCMをみていたら、BGMにビートルズの ”Golden Slumbers”「ゴールデン・スランバー」(のカバー)が使われていて、あっ、これよくない? よくないこれ? 有力候補じゃない? と思った。
 ビートルズリスナーは知ってのとおり、アルバム『アビイ・ロード』の後半に収録されているバラードです。これは曲調も歌詞も、子守唄にぴったりではないか。

 それにこの曲は、中学生だった僕が人生で初めて歌詞を覚えたビートルズナンバーでもあって(われながらシブい入門だと思うが、最初に出会った1枚が『アビイ・ロード』だったのだ)、そういう由縁みたいなものも、なんとなくいいじゃないですか。父から娘へと受け継ぐべき「ファザー・グース」といった趣もあって。

 いや待って、と、あなたがビートルマニアなら言うかもしれない。「同じビートルズだったら、リンゴの歌う“Good Night”のほうが子守唄に向いてない?」と。まったく同感。けど、却下させてほしい。だって、歌詞がうろ覚えなんだもん。

 そういうわけで「ゴールデン・スランバー」を、僕は情感たっぷりに歌い始める。

Once there was a way  
to get back homeward                  かつて わが家へとつづく道があった
Once there was a way  
to get back home           かつて 家路という道が 
                                      (※ 訳は筆者による。以降すべて)

 うん、いい導入だ。遠い未来の、大人になった娘に向かって歌いかけているようでもある。いつか、この家とこの布団を懐かしく思い出してくれたら僕は嬉しい。

Sleep pretty darling,  do not cry  おやすみダーリン 泣かないで
And I will sing a lullaby       子守唄を歌ってあげるからさ

 ララバイ(子守唄)という単語もここでしっかり登場し、胸に抱いたわが子を愛おしく思う気持ちがいま、絶頂に達しつつある。
 だがこの瞬間、僕はこの曲の弱点を忘れてしまっている。それは歌っている人間が気持ち良くなりすぎて、聴く側が置いてきぼりになりやすいということだ。寝かしつけたいのに、なんで朗々と歌い上げてるんだ俺は。サー・ポール・マッカートニーか。

Golden slumbers fill your eyes       黄金のまどろみが 君の両目を満たすSmiles awake you when you rise   目覚めるときは きっと微笑むんだ

 ゴオォォォォーールデン、と歌うとき、それはサッカーの実況中継における「ゴオォォォォール」のごとき高揚をともなう。スマーーーイルザウェイィィク、のところで声が裏返りながらも、歌は一気に着地点へ、眠りの世界へとなだれ込んでゆく。

Sleep pretty darling,  do not cry  おやすみダーリン 泣かないで
And I will sing a lullaby       子守唄を歌ってあげるからさ

  と、ここで終われればキレイなんだけれど、そうはいかない。僕はこの歌のもうひとつの弱点に気づいてしまう。

 それは、次の曲につながってしまう、ということだ。時すでに遅し。
 そう、この「ゴールデン・スランバー」はアルバム終盤を飾るメドレーの一部であり、2度目のサビが終わるとそのままシームレスに次の曲 “Carry That Weight”「キャリー・ザット・ウェイト」へと突入してゆく。しかも「キャリー・ザット・ウェイト」は「最初っからサビ」みたいな曲で、「ゴールデン・スランバー」の高揚からさらなるハイへと人をいざなう。

 このメドレーにいちど乗車したら最後、途中下車は音楽的に許されず、もうアルバムのエンディングまでまっしぐらなのである。荻窪や吉祥寺で降りたくてもオートマチックに高尾、いや、甲府まで到達して “The End”。そういうものだ。歌ってみれば分かる。 
 だからコケコのぼーっとした表情を見ながら、こっちはそのまま「キャリー・ザット・ウェイト」へと踏み込んでいくしかない。

Boy, you’re gonna carry that weight  ボーイ、君はその重荷を背負ってくCarry that weight a long time     その重荷をずーっとね

 待て待て待て。ストップ、ストーップ!って思う。ようやく我に返って、無理やり歌を緊急停止する僕。今日も緊急停車する中央線。

 重い、重いよ。そんなつもりじゃなかったんだ、コケコ。「君は重荷を背負っていく」だなんて、こんなメッセージ、1歳児にはまだ酷ってものだろう。それにBoy(男子)じゃないんだうちは。と、サー・ポール・マッカートニーに今さら抗議しても詮無いことだ。悪いのは、特急・甲府行きに乗り込んだ僕なんだから。

 そして同時にまた、ズシリと来るものを感じる。that weightだ!この歌詞の矛先が、コケコではなく、コケコを抱いた37歳の「男子」に向けられたものとしてギラッと光るのだった。

Boy, you’re gonna carry that weight  ボーイ、君はその重荷を背負ってくCarry that weight a long time     その重荷をずーっとね

 重荷? コケコが? ふん、言ってくれるじゃないか(サーは言ってません)。受けて立つぜ、と鼻息を荒くしたところでしかし、腕のなかのハー・マジェスティ(女王陛下)はいっこうに眠らず、8kgの体重も10kgか20kgに感じられる。メドレーはつづく。なにやら「君に枕を贈るつもりはないよ」とか歌っている。もう無理だ。黄金のまどろみからだいぶ遠い地点に来てしまっている。コケコが泣く。僕が泣く(心ん中で)。 横断歩道の真ん中で立ち止まっているような気分のまま今日も今日が暮れてゆく。

(ここまでが去年書いたものです)

画像1

 1年経って読み返してみると、やはりしっかり懐かしい。それに、たった8kgぐらいで弱音吐いている自分を笑う。 

 コケコはもう2歳5カ月。体重は13㎏を超えた。そしていかなる子守唄も機能しない。どころか、子守唄が全般的に「キライ」なんだそうである。どうやらその曲調が。
 TVを見ていて子守唄っぽい曲が流れると「さみしいうた、キライー!」と絶叫し号泣する。その歌が「眠り」という、「半日間のお別れ」あるいは「小さな死」のテーマソングであることを敏感にも察知しているんだろうか。 

 だが子守唄のみならず、優しいバラードとか、メロウなラブソングとか、なんならメジャーセブンス系の和音が鳴っただけで同様にコケコは「さみしいー!」と拒絶する。
 2歳の語彙では、それらぜんぶが「さみしい」という一言でバッサリ切り捨てられてしまうのだ。センシティブなのか雑なのか、どっちなんだろうね。そんなイヤイヤ期に、いま居ます。

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