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抱きしめるとき、後ろの景色しか見えなくても

投稿ボタンが錆びつく前に

 後輩のコピーライターが悩んでいた。
 仕事のなかで感じたことをwebにばんばん書いていきたい。のだけど、ちゃんと「言い当てる」ことが出来ているか気になって、ああでもないこうでもないと推敲を重ねるうちに、月日が流れ、おばあさんになり、かぐや姫は月に帰り、在りし日の記憶は消え、投稿ボタンは押されないまま錆びていって、途方に暮れてしまうんですよ。というのだ。
 わかる!ものすごくわかる。そんな後輩に向けてビールをおごるつもりで、これを書く。

 今年のはじめに僕が『男コピーライター、育休をとる。』という本を出したとき、「魚返の書くものをこれからも読みたい」と言ってくれる人たちがいた。「コケコちゃん(僕の娘の仮名)のその後の話を書いてほしい」という声もあった。書き手としてこんなに嬉しいことはないじゃないですか。
 それで、よし書き続けていこうなんて思っていたのに、何も書けないまま気づけば半年が過ぎてしまった。

 書けなかった理由のひとつは、こうだ。書くことが、とてもじゃないけど現実の暮らしに追いつかない、ということ。僕の場合は特に子育てについて、なにかを書こうとするそばから、風景が(視覚的なそれも、心象風景も)過ぎ去ってしまう。っと、ビールが来たね。まあ乾杯。この乾杯もきっと、新幹線の車窓から見る景色のように後ろへ吹っ飛んでいく。
 書く、って基本的にはけっこうめんどくさいことなのだが、その重い腰をやっとあげたとき、とらえたかったものはもうそこにないんだ。

シャープさの呪縛

 子どもが生まれるときに新しいカメラを買ったんだけど、ことあるごとにわが娘コケコを僕は撮る。自然体でしかもハッとするような1枚を撮ってやりたいと思う。がしかし、コケコはこの1年間で、それはもうよく動き回るようになった。2歳児は、表情もコロコロ変わる。そんな「動体」を、うまくとらえるのは難しい。
 シャッタースピードが足りなくて、ブレる。フォーカスが間に合わなくて、ボケる。あるいは、わが子じゃなくて図らずも背景のほうにピントが合ってしまう。こうした失敗写真のデータが、僕のSDカードには大量にある。

 同様の事態が、文章でも起こるわけだ。ああこれ、記録しなきゃ、「活写」しなきゃ、とセンテンスを練っていると、対象はもう、ちがう姿形になっている。子どもの様子に限らず、その瞬間に自分が思った/感じたこととか、妻が言った言葉のニュアンスとか、ほんの一瞬「あっ」と思った何か。それをとらまえようとしたって、言葉はボケとブレばかり。なんという無力感。とか言いながらもう、1杯飲んでしまった。夏だね。

 文字数が何字であれ、コピーライターの職業柄なのか、対象にパキッ!と言葉のフォーカスを合わせようとして肩に力が入ってしまう。商品や、それにまつわる「気分」に対して、言葉がシャープじゃないと。クリアじゃないと。そう思ってふだん働いているのだ。
 コピーというのは、どんなにゆるく、ふわっとした感じの文言だって、それは「そういう輪郭」を明確に狙って書かれている。仮にポッキーのそばにわざわざ「ポキッ!」と書かれていたとして、それ、あってもなくても同じじゃね? と思われたとしても、その文言は広告をクリアで強度あるものにするために必要だ、とコピーライターが考え抜いて書いている。
 もちろん、それぞれが成功しているかどうかはまた別の話なんだけど、なんにせよフォーカスにこだわる癖のせいで、僕の筆もよく止まる。

 けど、もうそんなことを言ってる場合じゃなくなってしまった。
「書かない/書けない理由」の重さよりも、「書かれずに過ぎる日々」への焦りのほうが、とうとう勝るに至った。「書けなくてやばい」より「書かないとやばい」のほうに、シーソーが傾いてきた。
 本一冊ぶんの言葉を費やしたというのに、まだまだ全然、自分が子どもを持った/持っている、ということにまつわるあれこれを言葉にできていない気がするのである。

甘い気持ち・甘いフォーカス

 たとえば文章のシャッタースピードが遅いせいで描写がブレてしまう、と僕は思っていたんだけど、それは逆ではないか? と考えることにした。ブレを恐れてシャッターをシャットするのを逡巡するから、シャッタースピードが遅くなるんじゃないか、と。なんつうニワトリとコケコ…じゃなくてタマゴ。
 きっとブレやボケを気にしてシャッターを切れないのは愚かなこと。失敗写真が集まるよりも、もったいないことだ。
 何度も試していれば、たまたま被写体をパキッ!ととらえた1枚を得られるかもしれない。うっかり背景に焦点が合ってしまっても、そのほうがむしろ意味のある1枚になることだってあるだろう。

 なんて話しているうちにビールは3杯目に突入したから、その勢いでさらに開き直ってしまうと、そもそもパキッ!ととらえることがそんなに大事なんだろうか、という話になってくる。そうでもない?

 人は、というか人の知覚は、愛情を抱く対象を「シャープにとらえない」能力を持っている。「ソフトフォーカスという機能」を備えている、とか言ってみる。
 恋する相手とか、わが子とか、ペットとか、タピオカミルクティーとか、いま僕が飲んでいるこのペールエールとか、愛しいものを前にしたとき、ソフトフォーカスが発動する。で、描写はやさしく、とろっと、フォンデュする(フォンデュってこれまた適当な言葉選びだなあ)。よくいう「恋は盲目」みたいなのとも、たぶんちょっと違う(突き詰めると心許ないが)。 
 輪郭をシャープに伝えるよりも、感触のリアリティのほうがちゃんと優先される機能。          
 ブレならブレで、さっきまでそこにあった何かの残像や余韻は示せる。そっちのほうが、結果的には「活写」になっていたりしてね。

 だいたい考えてみてほしい。
 キスをするとき、誰しも相手の顔や唇にピントなんて合っていないけど、それでいい。誰かを抱きしめているとき、せいぜい見えているのは後ろのどうでもいい景色だけなんだけど、それでいい。そこで逃したくないのは、キャプチャーしたいのは、感触のほうだ。
 文章でも、ときにはピントよりもタッチに、あるいは残像や残響に、価値を置きたい場合があるということだ。

 ついでにいうと、noteはなぜnoteという名前なのか。覚え書き。殴り書いたり、走り書いたり、されたいからじゃないだろうか(ごめん、ネーミングを仕事にする者のこれは想像だ。実際のところはnoteの運営サイドに問い合わせてもらえるだろうか)?
 なんにせよ、躊躇せず、とにかく投稿ボタンという名のシャッターを押そう。フィルムのような貴重な消耗品を伴うわけでもないんだし、15秒や30秒に凝縮する必要もない。ボケやブレは恐れずいこう。炎上は恐れていこう。

 さて、4杯目のビールを飲みながらひとつ白状しなくちゃいけないのだが、冒頭で嘘をついてしまった。投稿ボタンを押せずに悩んでいるコピーライターの後輩なんて、実はいない。もしくは、そこらじゅうにいる。そう、たとえばそれは僕のことだった。
 自分に言い聞かせる、というけれど、実際には「言い聞かせる」よりも「書き聞かせる」ほうが効果的なんじゃないか、と思って試してみたところなのだ。心の声なんて、飲んだら翌日忘れちゃうしね。


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