その場所に彼はいた 第一夜

 そろそろ日付も変わろうかという時刻、僕は寝つけなくって散歩に出た。ド田舎。レンタルショップすらない。明日も予定はなし。寝るには惜しい。

 バイパスの側道を行く。綺麗に整備されてはいるが、悲しいかなここは地方のさらに片隅。ただでさえ往来もないのに、いまは真夜中。誰の姿も見えない。

 しばらくのらりくらりと歩いていると、微かに、音楽が聞こえてきた。
 こんな夜中に?
 こんな場所で?
 けれど気のせいではない。たしかに聞こえる。

 音の出どころはすぐにわかった。自身の歩いてきた高架橋の、まさに真下だったのだ。ガードレールから身を乗り出してみると、ああ、いる。暗がりでよく分からないけれど、たしかに人影がある。

「そんなところで何をしているのですか?」
 普段なら声をかけようだなんて思いもしない。ああなんか怪しいのがいると思って、それでそのまま通り過ぎて行くだろう。この夜が僕をおかしくした。
 人影は質問に応じた。
「飲んでるんですよ」

「そんな場所でですか」
「好きなんですよ。ここが」
 なんとも不思議な奴だ。
 にしてもどうやって降りたのか。目を凝らして見るに、そこはコンクリートの橋の下の、迫り出した一部分ということが分かる。それとも、ロッククライミングよろしく登ったというのか。
「あなたもいかがですか、お酒」
 謎はすぐに解けた。
「梯子がかかっているんですよ。橋の上に金網で蓋がされてますから探してごらんなさい。鍵? 開いてますから大丈夫」

「いらっしゃい」
 隣に腰掛けると男はそう言った。
 歳の頃は30ほどか。けれど口調や態度からはもっと上にも思える。
「今夜はもう飲まれていらしたんですか?」
「いえ」
「今日はビールばかりなのですがご容赦くださいね。なんだかそんな気分で」
 男の傍らにはクーラーボックスがあった。
「どうぞ。きっと合いますよ。なんせここまで歩いていらっしゃったんですし」

「乾杯」
 例えば毒入りコーラだなんて事件があったし、たしかにそんな考えも脳裏をかすめた。けれど向けられた笑顔にその考えは消えた。
 酒はすっきりと喉を通っていった。
「エーデルワイスという銘の、オーストリアのビールです。こんな崖みたいな場所に生えている花の名前をとったものですよ」

「いつもこんなところで飲んでいらっしゃるんですか?」
「毎日というわけではないですけどね。たしかによくここにいますよ。あなたみたく声をかけてくださる方も何人かいらっしゃいましてね、たまに差し入れをくだすったりもするんですよ」
「ふうん。なんだか不思議な話だなあ」
「私はこの場所が大好きでしてね。街灯もなく、人通りもなく、車もそれほど遠らず、星がよく見え、何より私たちの町が一望できるのが素晴らしい」

「その曲もなんだか、夜ってかんじの曲ですね」
「そうでしょう。emancipatorというアーティストです。こんな静かなジャンルが好きでしてね。音楽と夜気と煙草があれば肴なんていりませんよ」

「おかわりをどうぞ。ほら、遠慮なんてなさらず」
「あ、いただきます。これは?」
「デュベルです。ビールの王様との異名がついているほどで、おいしいですよ」
「飲みやすいのにしっかりとした味わいですね。あ、曲が変わった」
「Mocky and the Saskamodie Orchestraです。デュベルによく合うと思いますよ」

「あなたは何をなさっている方なんです?」
「こんな素敵な夜にそれは無粋というものです。高等遊民とでもお考えください」
「というと?」
「近代の冒険小説やなんかの登場人物の、都合の良い設定のことですよ」

「逆にあなたは、なんでこんなところにいらしたのです?」
「なんだか眠れなくって」
「ありますねえ。そんな夜」
「あ、また曲が」
「これはNo Clear Mindですね」
「よほどお好きなんですね」
「これが私のお酒のアテですからね」
「なるほど。良く合います」

「3本目はこれなんてどうです?」
「なんだかすみません」
「とんでもない。これはブルックリンラガーです。どうぞ。先の2本より苦味が強いですが、それでもすっきりと飲めます」
「おいしいです」
「それは良かった。曲がまた変わりましたね。お、日本のアーティストですね。No.9です」

「相変わらず」
「合うでしょう」
「はい」
「曲の向こうから、微かに、車のエンジン音やホトトギスの鳴き声が聞こえてくるのもまた良い。最高の夜です」

「あの、実は会社を退職して、でも就職活動する元気もなくって。毎日定時のかなり前から出勤して、上司に怒られて、お客さんに怒られて」
「私はご覧の通りの呑んだくれですからね。何ら気のきいたことは申せませんよ。ごめんなさいね」
「いえ。すみませんでした。あの、ごちそうさまでした」
「お粗末様です。おや、次の曲が始まりましたから、これを聴いてからお別れにしましょうか」
「これは?」
「Re:plusです。Solitudeという曲です」

「またお会いしましょう」
「また来てもいいんですか?」
「ぜひ。何のお話も何らの助言もできませんが。では、おやすみなさい」
「ごちそうさまでした。おやすみなさい」

 梯子の金蓋を閉めてしまうと、先ほどとは違う時間に来てしまったように錯覚した。
 ちょうど曲が止まったままなのだろう。聞こえてくるのは自然のもののみ。
 程よい酩酊が僕の足を進めた。明日の予定が決まった。まずはスーツをクリーニングに出そう。とりあえずはそれだけで。ゆっくりでも、1人でもいいじゃないか。

 部屋の扉に手をかけようとして、なんとなく後ろを振り返った。月はなかった。山向こうへ行ったのだ。
 大きめの鳥影がよたよたと飛ぶのを見た。
 それは1つ声を上げると、やがて夜の色に紛れて消えた。








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