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命の物語|文字は意識を変えるだけ、心と魂と命は癒せない。


※本記事の画像はイメージです。
※作品や番組を批判するものではありません。
※長めのまえがきと、暗号のような本文です。使用する言葉は時に難解で、読者の頭を混乱させ、胸を騒つかせることを意図しています。よって、謎解き気分でお読みください。


ーまえがきー




路地裏放送局からお送りしています
みなさんのお相手を務めるパーソナリティの
U


今夜お届けするのは
本業の心理学に纏わる話
または
人類78億人に関係する




中尾彬の声が聞こえてきます








一体ふざけてんだか真面目なんだか




これはまちゃあきの声
今夜もあなたの夜のひと時を
ゴチになります
(いただきましたっ!)




⭐︎⭐︎⭐︎
ネタが交通渋滞し始めました
でもチャンネルはそのままで

(NH路地〜♪)



今日は『いのち』の話をしようと思う。
心理職なんだから『こころ』じゃないの?て思ったかもしれない。だけどね、『こころ』じゃない。『いのち』です。だって、


『こころ』は『いのち』の派生物だから。


このことを忘れているひとは、多い。心理職のなかにも、案外、多い。『心理』なんだから、『こころ』のことだけ専門にしていれば良いじゃん、とういう人もいる。

でも、それだけでは足りない。圧倒的に足りない。だから、『こころ』のことだけでやっている心理カウンセラーは、相手の『こころ』を癒すことは、ほとんどできない。相談に行ったら余計に病む、これ、多い。「時間が掛かりますから、焦らず、ゆっくりやって行きましょう(テンプレートの笑顔)」で、出費と不満がゆるやかにかさんで行って、コップの表面張力が耐えられなくなって、こぼれたら中断かフェイドアウトして終わる。

『こころ』は『いのち』の派生物ということを忘れているから。

これは、理屈なんかじゃない。屁理屈なんかでもない。すごく真面目に言っている。いや、これまでだって、ずっと、そう。まじめに、ふまじめ、やってた。「わかってる」って言う人、多そうだけど。や、この『命の物語』の記事で、初めましての人もいるとおもう。だから、長めの前置きを書いている。もうすこし続く。

で、








 。



命の話って聞くと、人によっては、道徳的とか、倫理的とか、宗教的とか、なんかそんなイメージを持つかもしれない。けど、そういう話じゃない。じゃあ、どんな話かっていうと、


根元的な話。


ん?根元的って、なに?
逆によく分からんて、なったかもしれないけど、向かう先は「命って何よ?」ってところ。でも、確かなことは分からない。だって、それが命だから。もしも、それが分かったなら、宗教も哲学も文学も数学も物理学も芸術も科学技術も、全部なくなる。てか、必要なくなる。でも、まだ、そうはなってない。だから、わたしにも語ることのできる命の話がある。できればついて来てほしい。最後まで。

わたしは、シュレーディンガーではない。ドーキンスでもない。ホーキング博士でもないし、オリバー・サックスでもない。かといって、ガリレオやニュートンやダヴィンチやアインシュタインのような天才でもない。あたりまえのことゆってるけど、そんな天才たちにしか理解できないことを、天才たちにしか理解できない言葉や数式で伝えても、わたしには意味がない。少なくとも、わたしの心や魂や命には。この記事を読んでくれてるひとなかで、そんな天才たちと同等の頭脳の持ち主以外のひとは、なんとなく、わたしが言いたいこと、伝わるとおもう。そうおもって書いている。

これまでの人生を振り返ると、わたしは人よりシナプス少ないか、脳細胞のアポトーシス始まってるんじゃないかと思ってる。物忘れするし、人の名前が出て来ないし、漢字も書けないし、計算も遅いし、絵も下手くそ。そんな何かが足りていない人間、これは断言できる。悲しいけれど。あ、でも、音楽と体育はできる。というか、わりと得意だし、好きだし、楽しめる人間。あたまは悪いかもしれん。けど、身体性は備えてる。差し引きして、ぎりぎりほんのすこしだけ賢いのかもしれない。20円のお釣りくらいは。

だからこそ、心理職としてはこれまで人の心や命というものに真剣に向き合い続けてきた。もう、あたま、ぐらぐら沸騰して、何年も何十年も頭痛が治らないくらいは。そんなあたまぐらぐらのわたしが語る命の話は、ある意味、物語だとも言える。

ファンタジーね。

もしくは、昔話や神話のようなものかもしれない。だけど、物語や神話だからこそ、よくわかることってある。だって、世界には、これまで、そういう物語や神話や伝承が、ずっと、失われずに伝い継がれているもの。だから、そんなつもりで読んで欲しい。

長い前置きになってしまったけど、これから命のむかし話を始めます。








_____

むかし話といえば語り出しは決まってる。
 。
 。
 。


三十八億年の、命の物語。


昔むかし、太古の海の中で何かが生まれた。それは、後に命と言ばれるもの。後に命と呼ばれるものは、ある構造を持っていた。


それはそれは、美しい構造だった。

星の瞬きや夕日の刹那、漣の揺らぎや降り注ぐ素粒子と寸分違わぬ美しさ。奇跡と呼べる美しさが生まれたのは偶然だった。それは、時間軸を無限に取るのなら、必然とも言える。その美しい構造物が生まれた瞬間、ふたつの方向性も生まれた。ふたごのように。

ひとりは、そこに留まろうとする子。
もうひとりは、そこから旅立とうとする子。


ふたごのそれぞれには、保守と革新という名前をつけることができる。二項対立の萌芽である。

保守は『愛』へと繋がり、革新は『自由』へと繋がる。

今でも、命と呼ばれる構造物には、ほとんどすべて、このふたつの方向性を見ることができる。もし、気になるのなら、一度良く見てほしい。よーく、よーく、よーく。

永遠と見間違えてもいいほどの十分に長い時のなかで、命はこのふたごのどちらかが主役になり、残された方が主役を助ける助役になり、ドラマを繰り返して来た。昔のドラマが夕方の時間帯に何度も再放送するように。

このドラマは、今この瞬間も、続いている。


ふたごの『保守役の子(アイコ|aiko)』が主役となったときのドラマのメインテーマは、ラブストーリーだ。俗的には恋ドラとも言う。ときには、露骨な性をテーマにすることもある。

一方で、『革新役の子(ジユウ|GU)』が主役となったときのドラマのメインテーマは、アドベンチャーだ。こちらは海賊になったり、フォースを操ったり、殺人事件が起きたりする。ときには、革命家や名探偵が登場することもある。

どちらのドラマでも、助演役になった子がうまく働かなかった時、その命は消える。絶滅。消滅。終演。完。チーンという具合に終わる。放送局で例えるならば打ち切りの運命を辿る。

そして、今尚、全人類78億人を悩ますものに、『愛と自由』がある。


自由は妨げるものを破壊しようと試みる。この原動力を怒りと呼ぶ。怒りは攻撃性とも言い換えられる。『愛と自由(怒り)』、過去と未来も含めれば、これらに悩まない人はいない。わたしも、絶賛、悩み中だ。いや、もはや限凸して、無限地獄モードへと突入してる。

だとすると、『愛と自由』というものは、命の誕生の瞬間にその起源を持っていると言える。

これは、改めて良く考えると凄いことだ。広告媒体に無遠慮に繁茂する愛に関するキャッチフレーズなど、どれほど軽薄であるかが分かってしまう。むしろ、そのキャッチフレーズに使われる言葉の質量はゼロだ。世界で質量のある言葉を探せば、そのほとんどは詩人の言葉だけになる。人間以外の動植物は、地に足をつけ、大地に根を張り、あれほど豊かに歌い、踊っているというのに。種によっては、空を駆け巡り、海を泳ぎ回りもするが。

ただ、残念ながら、わたしたち現代人にとっては、高尚で洗練された言葉よりも、軽薄なキャッチコピーやベストセラー本のタイトルの方が丁度良かったりする。

大衆性だ。

それは文化である。わたしたち現代的な心は、その成立の経緯ゆえに、些か雑な方が刺さり易いのだ。先ほど『命』を『ラブストーリーとアドベンチャー』とに分けたのも、そうゆう理由からだ。


命は、生まれたからには環境に適応して生き延びなければならなかった。そのために命の方向性であるふたごは、互いに助け合って、補いあって、制御しあいながら、生きやすい環境を探し求めて、自らの構造を変えて行く。遺伝子を変化させ、細胞を増やし、器官を切り捨て姿形を変えた。

時には、環境を変えることも厭わなかった。火を起こし、田を耕し、集団を形成し、偶像崇拝を生み出した。そうやって、命と呼ばれるものは、地球上に広がっていった。その様子を、天体の目で早送りして見れば、私達もウイルスや菌類と良く似た動きをしていただろう。

自らが生きやすい環境を求めるふたごの命にとって、ごく稀に、いや、時には頻繁に、特殊な環境が別の何かへの誘いとなることがあった。命はその誘いに沿うようにして、何とか生きようとした。だから、

『生き易い』というのは、命と環境の両者が互いに調和した関係、だと言える。

この環境のことを、『自然』と呼ぶ。

命は、可能な範囲で自分に備わってる機能を変えようとした。この持って生まれた機能を変えて周囲の環境と調和することを、心理学では、『適応』と呼ぶ。環境への適応だ。

しかし、持って生まれた機能を変える事は、命の内側に歪みを生じることになる。今までやっていたことと別の働きをしなければならないからだ。わたしたちの仕事でも、引越しでも、同じことが言える。このとき、命の構造が崩れずに、この歪みを許容して調和できるなら、命の持つ伸びやかさは維持される。これは、

「命が内側へ適応した」と言える。

この内側への適応の成功、または失敗には、各々の命のほんの僅かな違いが命運を分けることになる。これを個体差と呼ぶ。柔軟性に富む個体、力持ちの個体、寒さに強い個体、警戒心の強い個体などがそれに値する。

その機能と能力差を総じて、個性と呼ぶ。


ここに、進化への誘いが生まれる。生物学では進化圧と呼ばれるものだ。

自由を求める命は、神経系の発達と言う構造改革を産み出した。この流れは、中枢神経系へと進化を進めた。この改革は三十七億年後、海中を漂うマカロニのような古代魚だった命を、ホモサピエンスへと変えた。それが、わたしたちだ。

だから、人間は、自由への方向性に偏った進化の奇形と呼ぶことができる。自由を求める進化の流れは、保守側アイコの制御をはねのけて暴走した。極限まで突き進み、その種の消滅と言う形で終焉を迎えた。恐竜は、そのようにして滅びた。

ある生き物に対して致死性の高い細菌などにも同じことが言える。それは、見方を変えれば、環境からの命への制御だと言える。だから、命のふたつの方向性のうち、進化ジユウの方向性がより命特有のものだと言える。

保守アイコの方向性は、今ある命が、環境の一部を命の内部に取り込んで生き残ったものだ。

つまり、保守アイコは環境よりの方向性で、それが自然の意思でもあるわけだ。


環境からの関わりの本質は、誘いだ。
命に対して、それまでの構造改革の方向を示す誘いである。命が機能を変えようとした時、内側への適応が不可能な場合、命の構造が崩壊する。内側への適用が進化の方向性と真っ向から衝突する。

アイコ vs ジユウ|aiko vs GU

進化の行き先が、破滅へと向かう。これは自由というものがもつ自己中心性と呼べる。

この現象を自然淘汰と呼ぶ。

ここで、かろうじて、保守アイコの方向性が機能すると、生き残るために、これまでの進化の歴史を逆行し始める戦略が使われる。

心理学では『退行』と呼ばれる。

ただし、この場合、歴史通りに逆行するのではなく、新しい変化が付け加わる。それまでとはちょっと違う変わり種に変身する。自然淘汰と構造改革のドラマの中で、退行と前進とを繰り返しながら、より生きやすさを求めていくことが、進化なのだ。恐竜の末裔として今なお生き続けている鳥類や爬虫類は、その証だ。ジユウが肥大化して絶滅したため、アイコが形を小さく変身させて、生き残った。

文字は意識を変えるだけ、心と魂と命は癒せない。


私たち人間、ホモサピエンスに話を戻す。

私たちは、中枢神経系を、どんどんどんどん発達させた。そうすることで、人間は環境を変える能力を大幅に、飛躍的に、圧倒的に伸ばして続けて来た。結果、環境つまり自然からの制御が非常に困難な状態となった。

すると、どうなるか。

自由を求める進化の速度は指数関数的に増し、暴走を始める。暴走による最初の大きな飛躍は、鳴き声を話し言葉へと進化させる。コミニュケーションの質と量が大きく改善した。

ただ、話し言葉は、まだ、その身体、つまり肉体と密着していた。発声には、肺や声帯などの身体が必要だからだ。声は、身体の内部構造を利用するため、身体に根付いている。これは、時間と空間、つまり、

「今、ここ」性に束縛されるとも言える。

言い換えると、そうした束縛によって、命の保守アイコは、革新ジユウを制御できていたという訳だ。

だがしかし、止まることなく、進化を求める自由は、更なる暴走を続け、次の飛躍の準備を始める。そこでイメージの力が生み出される。いよいよ、第二の飛躍のときが訪れる。

文字言語の登場だ。

命は、文字言語を生み出したことで、肉体つまり身体に囚われていた「今、ここ」からの離脱を企てた。時間と空間の超越を試みたのだ。これが、数千年を経て、デカルトの心身二元論などへと繋がった。そして、西洋社会を中心に、私たちの心と身体は切り離された。頭は上位に価値づけられ、身体は低位に価値づけられた。致命的な誤謬が犯され、受け継がれた。

それが、今を生きる私たちを、今を生きる身体から切り離し、今を生きる命を生き難くしている。わたしはそのように感じて久しい。

私は、身体から切り離された言葉を、『身体性のない言葉』と呼び、身体から切り離されていない言葉を『身体性ののある言葉』と呼び分ける。同じように感じる者は、圧倒的に少数派ではあるが、存在している。『身体性のない言葉』は、張り巡らされたインターネット上のデジタル空間であるSNSに跋扈している。それらの言葉である文字言語は、更なる自由を求めて飛び回り、肥大化し、増幅し続けている。そのデータ量は、一日に、10.6EB(10,000,000,000,000,000,000 = 千京バイト)を超える。この量を1円玉に置き換えてみるとおよそ240億kmになる。地球から土星を越えて、天王星の手前まで行ける長さだ。

それだけの量のキャッチフレーズ、バズワード、流行語、memeなど、すべて、私たちの身体を離れて、頭から頭へ、脳から脳へ、神経細胞から神経細胞へ、シナプスからシナプスへ、伝染していく。そして、私たちは汚染される。身体性を逸した言葉に。それは、身体を汚染する。というか、身体の持つ命の力を疲弊させ、生きる力を弱めていく。

ほとんどの自己啓発本やメンタライゼーション系ブログや心理学系SNSの言葉は、一時の陶酔や快楽や解消を齎すが、その効果は長続きしない。その後、高確率で飢餓状態へと戻り、より強い渇望を生む。スパイスとして不安と焦燥が加えられる。その状態でメビウスの輪を歩き続けることになる。

畢竟、そのような文字は意識を変えることはできても、身体を持つ心と魂と命は癒すことはできない。

これは、自由が暴走したことで生まれた文字言語による記述ではあるが、私自身が、私自身の身体を通して創り上げた命の物語のひとつである。あなたの身体が持つ五感とそれ以外を総動員して、この身体性に溢れた物語を感じ取って貰いたい。そこで感じたもののなかに、あなたの心と魂と命を癒す鍵が隠されているはずだ。

私達の意思が認識できる情報量は、身体全体の情報量の0.001%にも満たない。私達が認識する文字言語はそこに含まれる。99.999%は、意識に上らない大きな川のような身体を流れているのだ。だから、少なくとも、『身体性のない言葉と文字』は、心と魂と命は癒すことはできない。

だから、私達は、せめて生活の中にある自然を、そして身体のなかにある自然を手放してはならないのだ。癒しは、そこにしかないのだから。

ちなみに心理職としての私が、実際の心理カウンセリングで、どのように癒しを齎しているかについては別記事に纏めている。また、それは、実際に、相談室でお会いした相談者だけが知るところである。縁があれば、相談室でお会いしましょう。



ー了ー

命の物語|文字は意識を変えるだけで、心と魂と命は癒せない。

と感じる人には、どうでもいい話。


(NH路地〜♪)


ーあとがきー


ええ、また、やらかしました。これまでの記事とは趣の異なる内容に、振り切ってみました。

「ほんま、何言ってるか分からん」
(いってるかわからーん)
(かわからーん)
(からーん)
(ーん)
(…)

の声がno+e内にこだましています。ええ、わかります。聞こえてますよ。

わたしとの付き合いがそれなりに長い方は、すでに、抗体を備えているので無事だとおもってる。けど、この記事がファーストコンタクトになった方は、ほんまに運が悪いとしか言えません。ええ、わかります。「こいつ、アホちゃうか」とおもてますね。聞こえてますよ。寅さんだったら、

「てめえ、さしずめインテリだな!?」

そう言うはず。いいや、わたしはインテリではありません。インテリアでもありません。インテリアンはBSアンテナで、ヨークシャテリアは犬種で、インディアンは原住民。や、それでも、わたしは、書き続けるでるます。ここに身体がある限りでるます。魂の宿った命がある限りでるます。身体性に溢れる言葉を書き続けるでるます!

(なんやねん、でるます、て!)

(ポーン)

「そうですね。それは、身体にある命という名の網を使って、世界をばらばらに切り落とした言葉を拾い集める。そして、もう一度、身体に戻してひとつの命にする。そのひとつに戻った命で生きる。ということですかね。」

(BGM|kōkua - Progress)


(あと一歩だけ前へ、進め!)
👣

デレレデレレデレ♪
デレレデレレデレ♪
デーン♪

識字憂患|人生字を識るは憂患の始め

お相手はUでした
また
路地裏放送でお会いしましょう
では
今夜はこの辺で



















(NH路地〜♪)


ちょっと、あんた!

あたま『?』のまま帰れへん!
どーすんの、これ?

と言う方、こちらの記事を読まれると
落とし所が見つかるかも知れません。


ーおわりー

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