四天王寺「新縁起」第39回

前・四天王寺勧学部文化財係
主任・学芸員 一本崇之

大阪大空襲

 昭和20(1945)年3月13日夜遅く、274機ものB29が大阪市上空に襲来。空襲警報のサイレンが響き渡る中、焼夷弾による“火の雨”が降り注ぎました。
午前零時半頃、当時、五智光院近くに住んでいた牧村源三は「西門が危ない」との声を聞き、西門へ駆けつけます。すでに見真堂・引聲堂・短聲堂が轟々と音を立てて燃え、西大門の屋根にも小さな火が見えていました。その火も高所のためどうすることもできず、次第に大きくなるのをただ見ているしかありませんでした。そのうちに今度は経輪蔵に火の手が上がります。バケツリレーで経輪蔵の消火にあたりますが、数人でどうにかなる火ではなく、なすすべはありませんでした。
 石鳥居の脇には天王寺消防署があり、境内火災の際にはすぐに消火活動を行うはずでした。しかしこの時、上本町で起こった空襲火災のために消防車がすべて出払っており、西門で火災が起こった時には1台も残っていませんでした。
 再び低空に舞い降りるB29の爆音が聞こえたかと思うと、今度は伽藍南側に次々と焼夷弾が落とされました。牧村らは仁王門へ向かい、小さな鬼火を踏みつぶしては必死で消火を続けました。この鬼火は、焼夷弾から飛び散ったゼリー状の着火剤があちこちにべっとりとへばりついて、ちょろちょろと燃え続けていたものです。この小さな火がいたる所に散らばり、境内にある建物を焼いていったのでした。
 午前1時過ぎ、五重塔に焼夷弾が直撃するも、当初は銅板葺きであった屋根がそれを次々と跳ね返したといいます。しかし、仁王門東の切妻屋根に落ちたエレクトロン焼夷弾(激しい光を発しながら燃焼する爆弾)による炎が高さ18メートルに達して噴き上がり、これが五重塔へ、そして金堂へとなめるように延焼しました。
 このとき現場では、出口常順師が、自ら再建に奔走した昭和再建塔の最後を仁王立ちで見つめていました。紅蓮(ぐれん)の業火を噴き上げていた五重塔は、やがて銅板屋根が燃えだし、蒼味を帯びた炎となったといいます。常順師はそこに青不動の姿を重ねました。

五重塔は、真っ赤な炎の中にくっきりとしたシルエットを描いて立っていた。やがて、ぐらりと東へ膝をついたかと思うと、一瞬、空が暗くなった。次の瞬間、大きな炎の浪が左右に広がって、そこは一面火の海であった。(出口善子『笙の風』)

 壮麗な落慶供養からわずか5年後のことでした。
 中心伽藍が燃え尽きると、今度は六時堂にも火の粉が降りかかり、縁の下がくすぶり始めますが、ようやく戻ってきた消防車によって亀の池の水で消火され、六時堂以北の堂宇は焼失を免れます。しかしその間に国宝建造物であった東大門に火の手が及び、瞬く間に炎に包まれました。中心伽藍と並んで、四天王寺の象徴であった桃山再建の絢爛な東大門もここに焼け落ちたのです。
 翌朝(14日朝)、人々が目にしたのは、亀の池以南のほぼすべてが焼き払われた無残な四天王寺の姿でした。

炎上する五重塔と金堂塔(写真の無断使用は禁止いたします)


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