四天王寺「新縁起」第40回(最終回)

前・四天王寺勧学部文化財係
主任・学芸員 一本崇之

戦後復興から現在そして未来へ 

 焼け野原となった境内を前に、四天王寺の人々は決してあきらめず復興への道を進みはじめます。
 昭和22(1947)年8月 焼失を免れた食堂を仮金堂として金堂跡に移築し、中心伽藍北西隅には仮設の北引導鐘堂が建てられました。この北引導鐘堂はほんとうに小さなバラックのお堂でしたが、戦争で失われた大切な人々を弔うため、多くの方が供養に訪れたのでした。
 その後、3年に及ぶ大規模な発掘調査が行われ、調査が終わった昭和32(1957)年から本格的に中心伽藍の再建が始まります。伽藍の復興には、藤島亥治郎・東京大学教授ら専門家によって構成される伽藍復興建築協議会が組織され、四天王寺式伽藍配置の保存を前提として、できうる限り太子創建時の姿を復元するという再建の基本構想が定められました。一方で、建築基準法の制約などから、伽藍は鉄筋コンクリート建築とすることとなりました。
 昭和32年5月の五重塔地鎮祭(起工式)を皮切りに、昭和34(1959)年4月に五重塔が落慶。続いて昭和36(1961)年3月15日に金堂が落慶し、講堂・中門・東西重門・廻廊・龍の井戸が順次再建されました。そして昭和38(1963)年10月15日から55日間にわたり、四天王寺復興大法要が厳修されます。戦後20年を経ずして、不死鳥の如く復活した四天王寺伽藍は、地域の人にとって戦後復興の象徴であり、希望の光となったに違いありません。
 この昭和の復興大法要から60年を目前にした令和3(2021)年、四天王寺は「聖徳太子千四百年御聖忌」の節目を迎えました。全国の太子ゆかりの寺院では様々な法要が行われ、四天王寺でも同年10月~翌令和4(2022)年4月にかけて、各宗本山を招いた聖徳太子千四百年御聖忌慶讃大法会が実施されています。そして4月22日、結願法要となる聖霊会が、古式に則って盛大に厳修されました【写真】。
 未曾有のコロナ禍を乗り越え、多くの人々が見守る中、夜遅くまで続けられた壮麗な舞楽法要は、100年に一度の節目にふさわしい盛儀となりました。
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 本連載で見てきたように四天王寺は聖徳太子による創建以来、幾度となく災禍にあってきましたが、その都度伽藍を再建し、人々の心の拠り所として、まちのシンボルとして存在し続けてきました。国宝・重要文化財といった歴史的価値を有する建造物や美術工芸品のみならず、法会や行事などの伝統も絶やすことなく継承しえた背景には、多くの篤い帰依と、四天王寺を守ろうとしてきた人々の想像を絶する努力がありました。
 日本屈指の古代寺院である四天王寺が、いかにして今なおその法灯を継承し、「生きる寺院」としてあり続けてきたのか。それは、常に衆生に寄り添う四天王寺があったこと、そして地域の人々がいかなるときも四天王寺を支援してきたこと、この相互的な関係性が1400年という途方もない時間にわたって維持されてきたからに他なりません。
 「また天王寺さんに参ろか」というたくさんの想いに支えられながら、四天王寺はこれからもその歩みを進めていくことでしょう。(了)

御聖忌慶讃大法会 結願法要 聖霊会(令和4年4月22日)


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