らくごハローワーク 第10職

落語にはさまざまな職業が登場します。演芸評論家の相羽さんならではの切り口で落語国の仕事をみてみると……。

駅伝の『明石飛脚』は元祖なり

 1871(明治4)年に、前島密(ひそか)が郵便制度を始めるまで、日本の通信手段の主流は、“飛脚”であった。平安末期に源流を発する飛脚制度は、鎌倉期に入ると幕府が鎌倉に、西国に目くばりをする六波羅探題(ろくはらたんだい)が京都市東山区あたりにつくられ、両者で頻繁に文書の交換が行われた。これを「鎌倉飛脚」もしくは「六波羅飛脚」と呼んだ。
 この文書を運ぶ人を飛脚、または脚夫と称した。これが江戸期に入ると、さらに発展を遂げ、江戸と京・大坂間を主軸に、全国的に通信網が整備されることになった。
 徳川幕府公用のものを「継(つぎ)飛脚」と言った。東海道五十三次の宿場をリレーして届けられた。ウナ(至急電報)の場合は、ノン・ストップで届けられた。これを「通し飛脚」と言う。
 参勤交代で江戸に詰める諸国の大名と、それぞれの居城を結ぶ「大名飛脚」は、経費高のため、次第に次に述べる「町飛脚」で代用されることになった。
 民間でつくられたのが「町飛脚」で、脚夫を抱える飛脚問屋(飛脚屋)が元締になって、仕事をこなした。これには、大きく3コースがあり、毎日のように江戸と京・大坂を往復した「定(じょう)飛脚」。月に3度だけ往復した「三度飛脚」。この時に飛脚が被った笠から名付けられたのが三度笠だ。さらに、「順番飛脚」があった。
 いずれも手段としては、駆け足や馬が主だが、船を利用する場合もあった。
『明石飛脚』という古典落語は、地名が出てくる関係で上方落語のみの珍しい噺だ。
     ◇     ◇
 大坂の飛脚が明石まで手紙を届けることになる。大坂・明石間15里(60km)と教えられた飛脚、尼崎まで走り続け、すれ違う人に「大坂から明石まで何里?」と尋ねると「15里」との返事。「まだ15里もあるか」と神戸まで走り、ここで同様に聞くとまたもや「15里」との答え。さらに走り続け、明石の人丸神社に到着すると、疲れのため寝てしまう。翌朝起こされ「ここはどこや」と問うと「明石や」と聞いて飛脚「寝てたほうが早よう着くがな」。
     ◇     ◇
 郵便制度確立後も、飛脚は“便利屋”の名でわずかに生き残るが、コンピューターの出現で、郵便も危うくなっている。通信手段も継飛脚のようだ。



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