四天王寺「新縁起」第29回

四天王寺勧学部文化財係
主任・学芸員 一本崇之

四天王寺を担う人々―衆徒のこと


 四天王寺の近世文書をみていると、文書巻末に「一舎利 ○○/二舎利 ○○/秋野(坊) ○○」と署名されているものが多くあります。これらは「衆徒(しゅうと)」と呼ばれる四天王寺の僧侶の代表者です。衆徒は、四天王寺の法要を担い学問に励む「清僧(せいそう)」と、経理など寺務を担当する「秋野坊」に区分されます。
 「清僧」は、妻帯を禁じられるなど厳格に戒律を守る僧侶で、六時堂両脇にあった東西の僧坊(【写真】右上)に住し、それぞれ自坊を持っていました。この清僧の坊は12坊あり、構成される坊の変遷はありながらも、近世を通じて維持されています。これらの坊の住職は、出家からの年数(臈次=らっし)の長い順に一舎利・二舎利・三臈(さんろう)・四臈……と定められ、なかでも一舎利・二舎利は四天王寺の代表として位置づけられていました。
 一方の「秋野坊」は小野妹子の末裔と伝わり、寺の公の行事と経理を担当し、妻帯も認められた身分でした。現在の中之門を出たところに坊を構え(【写真】中央下)、寺務を一手に担い、宝永2(1705)年には「公文所(くもんじょ)」の称号も授かっています。
 清僧と秋野坊は、その立場の違いもあって、対立することも多かったようです。四天王寺は、寛永2(1625)年に寛永寺の末寺となっていますが、清僧と秋野坊の間で大小の紛争が起こるたびに本山である寛永寺に指導を仰ぎ、問題解決を図ってきたことが「御條目御達書写」などの史料によってうかがわれます。この御達書をみていると、寄進された金銀の配分や、僧侶の着座の順番、着用する衣や袈裟の種類にいたるまで、細々と寛永寺の許可を得ていたことがわかります。
 また『四天王寺法事記』などの記録をみると、法会での役割においては、一舎利・二舎利が舎利職として金堂の仏舎利をつかさどるのに対し、秋野坊は三綱(さんごう)という立場で聖徳太子に奉仕する役割を担っていたことがうかがわれます。例えば、涅槃会(ねはんえ)などの大会において聖霊院から六時堂へ太子像を遷座する際、鳳輦に太子像を載せる役目や、聖霊会において太子のお目覚めの儀式である「御上帳(みじょうちょう)」「御手水(みちょうず)」も三綱の役目となっています。さらに聖霊会では、法会の前日に宝蔵から本尊の「楊枝御影(ようじのみえい)」を出し、一晩、秋野坊が自坊にて預かったのち、当日の朝、六時堂に安置するというしきたりもありました。小野妹子の末裔という系譜とも関係するのかと思いますが、このように役割が明確に区分されている点は四天王寺の信仰を考えるうえでも興味深い事実です。
 四天王寺の衆徒については、これまで不明な点が多かったのですが、近年史料の整理も進みその実態が少しずつ明らかになってきました。寺の運営を担っていた人々の動静をたどることで、近世四天王寺の様相が今後さらにはっきりとしてくるでしょう。

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「摂津国四天王寺図」(部分/四天王寺蔵)

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