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【ことばと国家(田中克彦)】うえこーの書評#35

 題名にある通り,ことばと国家の関係の本.

 (自然科学に限らず,学問一般としての)科学は,本来国家とは独立した存在でなければならない.しかし,それが難しいのが「言語学」という分野だ.そもそも,「フランス語」「ドイツ語」「日本語」と言語の名称に国家名が使われている.そして,どの言語が「フランス語」「ドイツ語」「日本語」と呼ばれるかはその言語の国家におけるパワーバランスに大きく左右される.例えば,今アイヌ語や琉球の方言が「日本語」となるとはない.言語一つ一つを対等に扱うのが科学としての正しい姿勢だが,言語学でそれは難しい.

 そもそも何が「標準」で何が「方言」かという線引きが難しい.なぜ,「関西弁」「博多弁」が「標準」でないのか.では「関東弁」が標準なのか.日本語とアイヌ語は全然違うが,日本語の方言とするのか,全く違う言語とみなすのか.そこには,言語そのものを見るだけでなく,アイヌの人々が日本政府に虐げられてきた歴史も加味しなければならない.

 ここで,「標準」という言葉を使ったが,どの言葉が標準といえるのか.いわゆる「正しい」言葉と言われるものだろうか.「正しい」言葉として想像するのは,文法的に誤りのない言葉だろう.しかし,そもそも文法的に正しい言葉があるということがそもそも間違いだ.

 昔のヨーロッパでは文法はラテン語にのみ存在し,他の言葉は俗語として扱われた.そして,文語はラテン語,口語は俗語というすみわけがあった.それが,時代が過ぎ,俗語がより自然であることから神に近い言語とみなされるようになり,俗語が文語でも表現できるようにするために俗語にも文法が生まれた.ラテン語以外の俗語にとって,言葉にそもそも文法があったのではない.言語が先にあり,文法が後なのだ.つまり,もともと俗語だったものに文法的正しさを求めるのはナンセンスである.そもそも,言葉の形が変化していくことこそがラテン語に比べより自然な言語とみなされた理由である.

 しかし,現在文語と口語では文語の方が基準で,文語と口語で表現が違う場合口語の方が文法的に誤りという烙印を押されてしまう.言語の歴史を知り,そのような無意味な指摘に対抗しなければならない.

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