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「勝手にふるえてろ」に、なぜ、文化系の男性が熱狂するのかを、考えた(前レビューへの短い追記)

「勝手にふるえてろ」に、文化系の男性が熱狂している。

これは、そのことについての、短い考察です(大島弓子「バナナブレッドのプディング」にも触れます)。

多くの人がもう気がついていると思うけれど、映画「勝手にふるえてろ」に熱狂する、文化系のツワモノの人が続出している。

それは、ツイッター上の、それこそ、いたるところで目撃できる。

この人とか。

この人とか。

この人とか。

これらの人たちによる連続ツイートは、豊かな教養を背景に、視点が良く、趣味が良く、なにより真情にあふれている。

あの映画を、ますます好きになれるので、ぜひ、読んでみてほしい。

http://bit.ly/2mkFdck

http://bit.ly/2CVeFZJ

http://bit.ly/2CZj6CA

http://bit.ly/2EoMzSI

http://bit.ly/2Ddvxb0

http://bit.ly/2CM7kaL

もう、きりがないなw。

ヒコさんや、細馬宏通さんの、参加も待たれるところだ。

ここで、思い出したのは、かつて女性たちに広く共有されていた「大島弓子を語りたがる男たち」という言葉だ。

その罵倒語に近いラベリングが復活しそうなほど、文化系の男性たちは熱く「勝手にふるえてろ」を語っている。

もちろん、松岡茉優の演技はすごいし、大九明子監督もすばらしい。映画としていいから、みな推奨するのでしょう。

しかし、それは大前提であって、それだけであるはずもない。「バナナブレッドのプディング」が「漫画としていいから」語られるレベルの作品ではないのと、それは同じことなのだけれど、人が集団として、類として、行動するとき、その動機と呼ぶべきものは、個々のおじさんの思いを含みつつ超える、集団に分けもたれた無意識レベルの感情であるはずで、それは、女性たちには、うかがい知れないことかもしれない。

cakesに映画評を連載する伊藤聡さんは、その映画を5回見て(今はもう6回)、主人公ヨシカの着ていたレンガ色のチェスターフィールドコートを、購入するにいたった。

なりたい気持ちは、よく分かる。

中年男性である自分は、ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」を聴くたびに、ロネッツになりたいと思う(「ベイビー・アイ・ラブ・ユー」をカバーしたラモーンズの気持ちが、痛いほど分かる)。もちろん、マリリン・モンローにもなりたい。

しかし、大島弓子作品を必要とするとき、自分が「バナナブレッド」の衣良に「なりたい」のか、というと、たぶん違う。

短く書くと決めて始めたので、もう書いてしまうけれど、そこに仮託されている「夢」とは「男性としてではなく」承認されること、だと思う。

男性はみな、猿山の猿として社会的に生きるよう、条件づけられている。けれど、男性たちは、そのことを多分に、なんというか、呪ってもいる。

猿である自分を嫌う、心のその部分は、多くの男性にとって、観測不能のブラックホールだ。

それはおそらく、「おじさんの乙女チック」という、デリケートゾーンとしてある。

聞くだにそれは、「この世」に、あまり、あり場所のない感情だ。

ヨシカも衣良も、女性性への強いとまどいがある。そして、「世界」と「この世」に、出会い損ない続けている。

「この世」に身の置き所のない、彼女たちが、必要としているのは、自分の世界と「外」の世界が(それこそ小さく口づけるようにして)触れてつながることであり、自分に「好き」を言いに来るのは、「世界」代表、あるいは「この世」代表としての、その人に他ならない。

もう、男が女がという話ではなく。

そこで待ち望まれていたものは「文化系の男性の人生に訪れなかったもの」でもあった。

「女性にしか分からない」領域というものは、きっとあるし、軽く見るつもりはさらさらないけれど、それでも、物語は、性差を超えて、普遍的なものでありうる。

それは、より孤独ではない「この世」がありうることを、信じるための物語であり、

なにより、松岡茉優と大九明子の驚嘆すべき才能が、ヨシカを、抽象として、客体として、作品として、男性にも見える形にしてくれたので。

おじさんたちは、ふるえて泣くのよ。



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