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久しぶりに日記

本を出して一ヶ月と少しが過ぎた。発売直後は落ち着かず、そわそわしていた。近くの本屋を何軒かまわり、実際に出ていることを確認した。大きめの書店ならば、とりあえず入荷しているようだった。

置かれているコーナーは謎だった。新刊コーナーに置かれているのは納得がいくが、エッセイ、サブカルチャー、哲学・思想など、本屋によってまちまちだった。知人の送ってくれた写真では、文学の棚で村上春樹訳フィッツジェラルドと佐藤泰志の評伝のあいだに置かれていた。なんだか嬉しかったが、そこでいいのか。

出してから気づいたが、ジャンル不明の本は書店としては売りにくいのだ。商売の基本的なことを考えていなかった。須原一秀が『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組』()のあとがきで、またしてもジャンル分けのむずかしい本になってしまったと自嘲していたが、そのへんのニュアンスを理解した。商売をなめらかに進めるために、ジャンルというものが必要なのか。

どうも自分は、ジャンル不明瞭な本にひかれるところがある。土を掘り返すと異形の野菜が出てきた時のような興奮を書物に求めている。あるいは得体の知れない謎の昆虫に、地中から飛び出してきてほしい。

須原一秀に関しては、本の最後に少し名前を出した。ジャンル不明ということで同じく意識したのは八十年代の橋本治の本だった。この二人は似ていると個人的に感じている。

『2000連休』はどんな本なのか。

色々と言えそうだが、自分としては、ぶあつい冗談を書いた気がしている。たまに目次を見返してウケる。「仕事のない解放感を味わう」という見出しで始まった本が、「《今》がむきだしになり、知覚点だけが残る」という見出しで終わるのはおかしい。そんなことがあるか。2000連休という言葉のインパクトにまぎれて、結構な無茶を通そうとしている。

ある意味、目次でラストをネタバレしてるわけだが、バレたネタが謎すぎるというか、ネタバレがネタバレとして成立していないというか、「あの本のラスト、主人公の《今》がむきだしになって知覚点だけが残るんだよ」と言われても困惑するだけでネタバレに怒る気持ちがわいてこない。

ただ、入口と出口を直結させると意味不明にはなるのは、この本に限らないとも思う。たとえば「桃太郎」の入口と出口を直結すると、「昔々、ある所におじいさんとおばあさんが住んでいました。桃太郎は鬼ヶ島で鬼を退治しました」になり、これはこれでバカバカしい。老夫婦にフォーカスしたかと思えば、知らないだれかが知らない鬼を退治している。すごく唐突に桃太郎が出てきた印象を受ける。

そもそも、鬼の登場をOKとする世界観だということも、この冒頭だけでは分からない。川上から流れてくる巨大な桃というイメージも奇妙だし、そんなシュールな展開の後で「桃から出てきた桃太郎」という安易なネーミングが炸裂するのもすごい。突飛と安易が共存している。

まあ、今さら桃太郎いじりもないだろうという話だが、ついでに桃太郎と『2000連休』を合成しておくと、

むかしむかし、ある所に、
おじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんは山で《今》がむきだしに、
おばあさんは川で知覚点だけになりました。

これはこれで読んでみたい気がする。たぶん二人はもう家に帰ってこない。桃太郎も出てこないし、犬、猿、雉、鬼、すべて不要。どんぶらこ、どんぶらこと流れてくる巨大な桃を、おばあさんはただ知覚している。視覚、聴覚、言語が断絶し、それらを統合することに何の根拠もない。耳から入ってくる音を、どんぶらこという言葉に変換する、その無根拠に直面しているうちに、巨大な桃が川下へ流れ去って、話は終わる。

めでたしめでたし、と言っていいのかは分からない。

話を戻すが、『2000連休』は結構バカバカしい本だと思っている。真面目に書いた本ではあるのだが、真面目さがバカバカしさに転化する瞬間がしばしば見られるというか、極度に真面目になるとアホと区別が付かなくなるのだと思わず断言してみたくなるというか。

分かりやすい例としては、たとえば、以下のページ。

ゲラを読みながら、「この場面、アホしか出てきてないな」と感じていた。上田と杉松、それぞれに思考回路がおかしいのだが、おかしいまま話が進行している。一人はツッコミを置け、ツッコミを。

めしを食うか本を買います