岩田さんについて

「岩田さん」という本は、ほぼ日の永田泰大さんがまとめた、任天堂元社長である岩田聡さんについての本だ。
僕は長い間、任天堂ファンだったということもあり、任天堂に関する雑誌・ネット記事などをよく読んでいたので岩田さんについては本書を読む前からよく知っていた。大ファンでした。ほぼ日も、任天堂の社長が訊くシリーズも、雑誌も、、任天堂ダイレクトも楽しみにしていた。だから本書で書いてあることで初めて知ったところは、書き下しと思われる任天堂の宮本茂さんと、ほぼ日の糸井重里さんの部分だけでした。僕にとっては、新しい発見はないけど、こうやってまとまった本という形になってよかったと思う。いままで岩田さんを知らなかった人にとっても、僕のように岩田さんをファンとして知っている人にとっても、、、。
まとめてくれたほぼ日の永田泰大さんには感謝しかない。本当に良い本だと思う。ちなみに僕は文章家としての永田泰大さんのファンでもある。

さて、岩田さんはまるで聖人のように他の人に、ほとんど弱さを見せなかった人物だったようだけど、実際には(当たり前のことけど)悲しかったことはあっただろう、、と言うか、とても多かったのではないかと思う。

岩田さんは32歳のころ、それまで開発部長として勤めていた会社の社長に就任します。経営不振に陥ったためで負債は15億円。めでたいことは何もなく

会社が建物を担保に借りた借金は、
もし会社が立ちゆかなくなったら、
わたしが個人補填をしなければいけない
状況になっていました。 

という状態でした。これは、ほぼ日の社長に学べ!という糸井重里さんとの対談で語られいることです。

この対談では当時の自分の置かれた状況を客観的に、むしろ相手の銀行視点で淡々と丁寧に語られている。まるで辛くなかったかのように、、。

でも、辛さの分からない人には、他人の辛さも分かるわけがない、、。人の痛みや辛さが分かる人だからこそ偉大なリーダーになったのだと思う。

個人的なことでの辛さは分からないけど、仕事面でも血反吐を吐くくらい辛いこともあっただろうと思う。任天堂の取締企経営企画室長時代、社長時代を通じて任天堂に多くの成功をもたらした。しかし、悔しくて仕方ない失敗も多かったのだと思う。

当時のゲーム業界、それもDS、Wii、PlayStationなどの本体(ハード)を販売する任天堂やソニーのような企業は、1つハードを出すと数年間(5年~10年)は、そのハードで動くソフトウェアの市場を作らなければならない。世界で1500万台しか売れないハードと、1億台売れたハードではソフトウェア市場の大きさがまるで変ってしまう。そのためハードを販売する企業は赤字で本体を販売してハードを普及せざるを得ない状況になることが多々あった。売れないといっても数千万台規模で売れるハードを数千円から1万円以上の赤字で販売する。赤字会社の社長として経営者のキャリアをスタートして、利益がでないことの辛さを身をもって知っている岩田さんにとって、構造的に赤字を生み出す状況は耐え難かったに違いない。それでも売れたらまだマシで売れなかったら契約している会社の製造ラインを止める必要がある。これも非常に辛かったはずだ。これらの責任は社長である岩田さんの両肩にずっしり乗っていた。岩田さん時代の任天堂のハードがどんなものだったか書いてみたいと思う。

GameCube
経営企画室長時代の一番の仕事がGameCubeだったのではないかと思う。GameCubeを開発しているとき、岩田さんはまだHAL研究所の社長だったが、自社のソフト開発(Mother3) を犠牲にしてまでも任天堂からの仕事でアメリカへ毎月行くような状態だった。どんな仕事をしていたかは分からないけど時期的に考えるとGameCubeの仕事だったと思う。そして任天堂へ入社してからはGameCubeをアピールして売り出す仕事をする。しかし結果は大失敗。GameCubeはPlayStation2の牙城を崩せるどころか傷つけることすら出来なかった。
当時、岩田さんはPlayStationに対してスペック競争を仕掛けていたように思える。PlayStation2よりもゲームで実際に使えるポリゴン数が多い、ゲームソフトのディスクが小さいのでPlayStation2より待ち時間が短い、、、。などなど、、、。
発売がGameCubeより早く、すでに広く普及していたPlayStation2への対抗戦略として、共通項の性能差アピールは無意味だった。このような戦略は競争を優位に立つ方がとるものであり、弱い立場の挑戦者はPlayStation2には無い何かで差別化戦略をとる必要があったように思える。
また、リビングのAVラックに収まるサイズで、色も黒でシックでDVDプレイヤーとしても使えるPlayStation2はリビングに収まることができたが、小さくても高さがあり派手なカラーリングのGameCubeはリビングに置くことを嫌われた。ここでの失敗はWiiの成功の母となるのだけど、当時の岩田さんにしてみれば苦しい時期だったことだろう。

GameBoy Advance SP
社長就任後に会心の一撃だったのがGameBoy Advance SPだったと思う。なぜなら、ハードの販売価格を値上げしたのにも関わらず販売数でも成功をおさめたハードだからだ。ハードは値下げするのが当たり前だった業界にとって驚きの成功だったのではないかと思う。また、ファミコン20周年記念を大々的にアピールして売り出したことも、技術者岩田さんから経営者岩田さんへ大きくチェンジしたことを伺わせた。ファミコンカラーのGameBoy Advance SPは大きな話題になった。

DS/DS Lite
GameCubeでゲーマー相手への真っ向勝負の無意味さを実感した岩田さんは「ゲーム人口の拡大」をかかげ、タッチ!・ジェネレーションズシリーズの開発部隊を自分の直下に置き(社長直下に開発部隊があるのは珍しい)、大成功を収める。ライバルであるソニーのPSPとの勝負だったので、ここでの勝利は任天堂にとっても岩田さんにとっても非常に価値があることだった。女性客がついたころを見計らって女性受けするデザインのDS Liteを発売したのも効果的だった。

Wii
リビングに置くことを嫌われたGameCubeの反省を糧に、リビングに置かれることに徹底的にこだわったハード。記録的な成功を収める。

3DS
大成功したDSの後継機種。後継機種としてまずまずの台数を販売することには成功したが、本体価格の値上げに失敗してしまいます。これは痛恨の失敗だったのではないかと思う。25000円で発売したのにも関わらず、発売半年で15000円に値下げすることになってしまったのだ。当然赤字での販売になる。この赤字は任天堂の経営にも多大な影響を与えた。おそらくこれが一番辛い失敗だったのではないかと思う。

Wii U
記録的な成功を収めたWiiの後継機種だったが、一転、こちらは記録的な失敗となってしまう。理由は正直なところ分からない。単価上げに失敗したものの普及には成功した3DSとは違い、こちらは完全な負け。ドル保有額の多い企業にとって不利な超円高と相まって任天堂の経営を苦しめた。

このようにハード戦略はうまくこともあれば、苦しいこともあった。3DSを半年で値下げに踏み切ったり、Wii Uを4年で諦めたり、失敗しても尋常ではないスピードで決断できるのが岩田さんらしいが、やはり辛かったと思う。

人材育成
次の世代のリーダー育成にも成功しており、彼らがメインで作ったSwitchはWii Uの失敗を見事に挽回した。そして、開発畑の自分とは全く違う経理畑の古川氏を社長候補として育てていたのも岩田さんらしい。

岩田さんも人間だから辛かったはずだ、という当たり前のことを延々と書いてみました。超人的だったり聖人みたいな人だったかもしれないけど、自分の人生をしっかり歩んできた人間だと思っておきたいので……

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