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痛苦と救済のものがたり。映画『ルックバック』【ネタバレあり感想】

*本編に関するネタバレ、および個人の見解・想像の部分を多く含みます。
ご自身の見解と相違がありましても、
「他所は他所、うちはうち」と割り切って
お読み頂けますと幸いです。

 予備知識はタイトルと軽いあらすじのみで先入観はほぼゼロ、と言いたいところでしたが、既にXにて『上映開始後十分でボロ泣き』などというレビューも散見されるようになり…
『泣ける映画』というバイアスが自分の中で芽生え、感動の及第点を設置してしまわないうちに観に行かねば、と取り急ぎ鑑賞してまいりました。
 結論から言いますと何度か涙する場面はあったものの、号泣というまでには至らず。
誤解なきように念押しておきますが、決して駄作だとか退屈だとかこき下ろしているのではなくて、今作を見て滂沱の涙を流すこと即ち
『神の背中を諦めずに現在進行形で追い続けている人、および追い続けた人だけが至れるカタルシス』なのだろうと強く感じた次第です。
 並み居る著名クリエイター達はもちろん、神絵師と崇められる数多の絵師達、そういった人々に憧れ研鑽を積み続けているすべての人々が、その道程で味わったであろう喜びや痛苦の記憶の具現化であるからこそ、流せる涙なのだろうなと。
 だから、これから劇場に向かわれる方には是非『泣かせてくれる映画』だと思わずに、作品と対峙して欲しいと願います。自らの内から自然と溢れ出てくるものを噛み締めて欲しい。
”結局のところ何者にも成り得なかった”半端ものである私から、お節介を承知でのお願いです。
 そんな尊い感動に便乗してしまって良いのだろうかと、若干の葛藤にも似た感情も正直なところありましたが、『創作すること』に多少なりとも関わってきた”端くれ”としては、やはり心揺さぶられたり感情移入を禁じ得ない場面は多々あり、こうして感想文を書くに至りました。

 まず開始から数分足らずで自己投影してしまう程に主人公・藤野の人物造形が絶妙。
あれだけ苦心してネタを絞り出してたくせに「忙しかったから五分くらいで描いちゃったんだけど」と得意げなポーズでこっそり予防線を張る仕草、お身内に誉めそやされてニマニマした挙句、担任に漫画道の講釈を垂れるなど、眩いほどの幼児的万能感に満ち満ちたムーブが微笑ましくも居た堪れない。
 チェンソーマンのアサちゃんの”拗らせ感”然り、同族嫌悪と共感、その中間程度のいい塩梅の”ややこしさ”を絶妙な台詞回しや挙動で上手く表現されるなあ、とつくづく感じます。
 そんな風に狭い世界の中で分かりやすいほど有頂天になっていたのに、今まで自分が知り得なかった上位の存在・京本に実力差をまざまざと見せつけられ、盤石だったはずの足元をグラッグラに揺らがされる訳ですが、
ここまでの経験ってきっと誰しもが一度は通った道ではないでしょうか。
 描画技術に関する書籍を買い漁り、自己流ではなく基礎の段階から絵を学び直し、切磋琢磨を続け迎えた二年後。
六年生の学年新聞に掲載された自作の四コマと隣に並ぶ京本のそれとを比較し、「やーめた」と藤野が呟くシーン。ここは個人的に序盤での”第一波”でしたね。
追えども追えども縮まらない圧倒的な”距離”を悟り筆を折ってしまった藤野に、かつての自分をふと思い出さずにはいられず胸が詰まり、BUMP OF CHICKENの『才悩人応援歌』を初めて聴いた時に似た切なさに襲われる。
 とはいえ、未だ見ぬ神であり最恐のライバル・京本の存在に触発されてからというもの、あの年頃ならではの女児特有の世間体をかなぐり捨て、心血の全てを『描くこと』に捧げ、ひたすらに不断の努力を続けてきた彼女とは違い、
勝手に神を畏れ絵を描く事を諦めた後、通り魔相手に空手キックを見舞えるような人生を送ることもなく今に至っている、単に根性無しの私とを同列に語るのは到底烏滸がましいのですが…
 その後映し出される、一見”普通の小学六年生女児”を取り戻し始めた藤野の日常。しかし家族揃って映画を見ているシーンにて、画面から漏れる光を反射する虚な彼女の瞳が、所詮それらは虚無感を埋めるため、上辺をなぞっているだけに過ぎないことを暗に物語っている。凡庸な自分を受容して生きていく過程を凝縮したようなシーンの連続に辛さ倍増。
 一方で、ここからは完全に私的で勝手な想像なので不愉快に思われてしまったら申し訳ないのですが、積み重なったスケッチブックを一掃してしまった時、
藤野の胸に去来した感情は寂しさや悲しみだけではなく、ほんのごく僅かな安堵も含まれていたんじゃないかと思ったり。
 京本を超えると決意した後、描画技術の上達を望み描き続けていたものの、次第に劣等感の払拭の為に”描く行為自体に取り憑かれている”と形容した方が正しいのではないかと思えるほど、スケッチブックに向かう藤野の表情は暗澹たるものに変化していたのが、そう考えた所以です。
『好きだからこそ頑張れる』のだけれど、いつしか義務感の方が座を占める割合が多く苦痛になってしまった時、『好き』を手放す痛みを感じつつも「これでもう頑張らなくて済む」と心のどこかで安らぎを覚えても不自然ではない気もしていて。
その安らぎがやがて後悔や喪失感へと形を変え、終生自分を苛むことも往々にしてあるのだから、『好き』とはつくづく愛おしくも厄介なもの。
 だからこそ、京本との邂逅の後、全身そして振り上げた拳から歓喜を迸らせ、土砂降りの雨の中をスキップしながら駆ける藤野の姿に
「ちょろいなあ〜!!でも、すっっっごいわかる…わかるよ…よかったなあ…」と泣き笑い半分で何度も心の中で深く頷いてしまいました。この時の藤野には、畦道やその身を打つ雨音も喝采に聞こえたことだろうな。
 明らかに自分よりも格上の実力者に、「先生」だなんて呼ばれてしまったうえサインまでねだられ、自分が今まで描いてきた過去作への熱のこもった感想まで伝えられたら、そりゃあ誰だって天にも昇る心地になる。まさしく『神様からのお墨付き』を頂いたといっても過言ではないのだから。
 自分に筆を折らせたきっかけを作った相手に称賛されるという想定外の事態の最中で、その喜びをおくびにも出さない藤野の、どこか高飛車でプライドを堅持したいが為の拗らせた返しもまた最高に”らしく”て、前述のスキップシーンでの感情の発露・爆発具合を更に際立たせる。
 そして、自室の床へびしょ濡れのまま捨て置かれたランドセル、一心不乱に机に向かう藤野の背中から、一度は潰えかけた創作意欲の炎が発する熱がひしひしと伝わってまいりました。
 怒涛の演出続きのシークエンスにも関わらず、観ている我々の感情を無理やり揺さぶられるような、嫌らしさやくどさを不思議と感じませんでしたね。
息遣いだけで藤野の高揚を表現しきっていた演者さんの演技に、演出過多になり過ぎないシンプルで物語に寄り添う、優しい旋律の劇伴が見事にマッチしていたおかげかもしれません。
ボーカル曲は感情移入に一役買うものの、ややもすると歌詞の内容に引っ張られすぎて、個人的にあまりに多用されると却って興がさめてしまうきらいがあるのですが、
今作の劇伴はとても望ましいバランスとタイミングで、物語の良きエッセンスとなっていました。

 こうして共に漫画を描く道を歩み始めた藤野と京本。自分に足りないものを互いに補い合い、一つの作品を創り上げていく二人の関係性は、親友と呼ぶよりも同志、または戦友と形容する方がしっくりくる気さえする。
堆く降り積もった雪をかき分けながら凍える夜道を歩き、ようやく辿り着いたコンビニで結果発表のページを目の当たりにして歓喜に湧く彼女達の姿は、栄光を掴むまでの道程の暗喩のようにも映りました。
 入賞賞金の一部を手に街へ繰り出し、京本の手を引いて先を走る藤野、藤野に手を引かれ後をついて走る京本。色彩の霞んだ雑踏の中で、各々の視界に友の姿だけ色鮮やかに映っている演出が、
『親友といて楽しくて仕方なかった時、周りの大人達なんて目に入らなかった』青春時代を視覚化したようで、とても眩かった。
クレープを食べたり映画鑑賞をしたりと、大金を手に入れた割には結局五千円しか使わないで済んでしまうくらい、ありふれた女子中学生の何気ない休日の過ごし方。
 けれど、長年外界との関わりを断ち引きこもってきた京本にしてみれば、藤野と過ごすこの時間には今まで通り過ぎてきてしまった全てを、取り戻して余りあるほどの価値と輝きが詰まっているんだよな、と電車の中で京本が藤野に感謝を述べるシーンで涙。
ここでの京本の台詞が、終盤更に効いてくるんですよね…

 移ろう季節の中で得た様々な経験や瞳に映した風景を元に、読み切り作品を連発していく藤野と京本。単にインスパイアされただけではなく、二人で見つけたものだからこそ、一層輝いて見えたのでしょう。そんな無尽蔵なアイデアの宝庫にも似た世界の中、順風満帆に歩む二人の関係性にやがて生じた変化。

『もっと良い作品を作りたい』
『もっと絵が上手くなりたい』

 始点は同じだったはずなのに、気づけば今の二人の内に宿る創作意欲と自己実現のベクトルは、微妙に似て非なるものになっていて。
藤野のおかげで、京本の内に新たな世界へ踏み出すきっかけと勇気が生まれたが故の、誰にも罪のない不和が切ない。
 自分一人の力で生きてみたい。これまで藤野と繋いでいた手を離し、背景美術を学ぶ為に美大へ進学する決意を固めた京本。彼女と袂を分ち、編集部から打診されていた連載に着手し、プロ漫画家として活動し始めた藤野。
 京本という片翼を失った代償は大きかったのか、連載開始からしばらくはお世辞にも人気作品とは呼べる様子ではなく、掲載順も打ち切りラインギリギリの状態を推移していて、原作未履修の私は「これって打ち切りで夢破れるENDじゃないよな…」とジワジワとした焦りを覚えました。
 当然ジャンプだけではなく、ほぼ全ての漫画雑誌にも言えるのだろうけれど、コンスタントに売上を出せるコンテンツだけが求められる、”実績ありきの世界”へと本格的に足を踏み入れたことを示唆するシーンの連続に、
数分前まで同じスクリーンで展開していたはずの、何処かファンシーでキラキラした”あの頃”が早くも恋しくなってしまう。
 明確な描写はなかったように記憶しているのですが、窮地を脱するにあたっていわゆる『テコ入れ』なんかも提案されたんだろうか、と邪推してしまいましたね。本意ではないストーリーや作風の変更を余儀なくされる事はあまり珍しくはないでしょうし。
 続々と発行される単行本、アニメ化の決定、明らかに当初よりも広い間取りの作業部屋に拠点を移すなど、連載が軌道に乗り始めたことを窺わせるも、いまいち諸手を挙げて喜べず。
 用を足す時ですら作品について思案を巡らせ、日々精神と体力を擦り減らしながら、仄暗い作業部屋でただ一人デスクに向かう藤野の姿。そこに、京本を超える為『描くこと』に執着し、人間の骨格をひたすら模写していた在りし日の彼女が重なってしまう。
藤野は今も『描くこと』を楽しめているのだろうか。そんな私の憂慮を更に強めるような、彼女へと届く非情な”報せ”。
側で流れるニュースの音声に不穏な気配をそれとなく察知していたものの、まさか的中してしまうとは…

 『事件』の描写に関して、修正が入った件とその経緯を鑑賞後に調べて把握したのですが、フィクションにノンフィクションを持ち出して過剰に断罪するのは如何かと論ずる以前に、
現実の方で発生した『事件』の犯人と今作に登場する犯人とでは、人格や凶行に至るまでのバックボーンがそもそも違うのでは
、と些か疑問に感じました。
 恐らく今作でこの犯人を登場させた意図とは、『創作に伴う痛苦やジレンマ、それに心を囚われてしまった側の人間の末路』を描く必要があったからだと思うのです。その点を差し替えてしまうのは、作品が真に伝えたいメッセージを歪めてしまいかねない。
 また、修正を請うた理由が『精神疾患への差別や偏見を助長しかねない』とはいうものの、こういった描写を禁忌扱いにする=該当の疾患を持つ人は須く凶暴性がある、と却って強く印象付けてしまうのではないだろうか、とも懸念を抱きました。
現実の『事件』の犯人の犯行動機は、報道されているものを見る限り、作中の犯人と一見似通っていますが、生い立ちやそれにより後天的に形成された顕著に他責的な人格等、
単に創作で成功を収めた人々に対する嫉妬や精神疾患のみが、真の動機や凶行に至った理由とは言い切れない部分も多いように見受けられます。
 もちろん、遺族感情に配慮した背景もあるのでしょうが、どちらかというと犯人側の”事情”にのみフォーカスされている感が否めず。
賛否両論あるかと存じますが、私個人としては修正前の原作に忠実な描写で映像化されたことには、大いに意義があると感じました。

 亡くなった京本の家を藤野が訪ね、自身が彼女の人生に転機を与えてしまった悔恨に苛まれるままに、四コマ漫画を破り捨ててからの展開は、私自身の中でいまだに消化しきれていない部分が多く残っています。
 果たしてこれはパラレルワールドとして存在していたのか、それとも藤野の願望の世界だったのか。後者だとしたら、『わざわざ京本の命を脅かすことになる進路を再び思い描くだろうか』とも思えるので、パラレルワールド説が有力なのでしょうか。

「私が漫画を描いたせいで」
 「京本を部屋から出さなきゃ死ぬことなんてなかったのに」


 学年便りに掲載された藤野の漫画を初めて見た時点で、京本の内には『もっと絵が上手くなりたい』という願望が芽吹いていて、例え藤野と対面し言葉を交わすことがなかったとしても、恐らくその成長を止める術は無かったでしょう。
一度は描くのを辞めたはずの漫画を、この異なる世界線においても再び描き始めている藤野を見ても分かるように、互いの存在が互いの人生に不可逆的な影響を及ぼしている。
 京本の凄惨な最期を想うと、藤野が自責の念に駆られるのも無理はないし、「藤野のおかげで部屋を出られて、京本は幸せだったと思う」と軽々しく言い切るのはどこか憚られてしまいます。
 ただひとつ確かに言えるのは、いずれの世界でも藤野は京本の『救い』になれたのではないでしょうか。平行世界では命を、本編の世界では最終的に命こそ救えなかったものの、長らく人間不信と孤独に陥っていた心を、それぞれ救うことができた。
 京本の部屋にあった全てが、「漫画なんて描いても何の役にも立たないのに」と『描くこと』の意義を見失い絶望に打ちひしがれる藤野へと示された『答え』であるとするならば、平行世界を通じて京本の部屋のドアの隙間から舞い戻った四コマ漫画は、その『答え』へと導く為の鍵だったのだろうか、と思い至りました。

 やがて大衆に求められなくなろうとも、認められなくなろうとも、どう足掻こうと『描くこと』を続けるほかない人生を、藤野は再び孤独と痛苦に向きあい、作品を生み出す手を止めずに生きていくのでしょう。
 では、何故描き続けるのか。
 いつか京本から投げかけられた問いを、藤野自身これから先、幾度も自問するかもしれません。
 デスクの正面に位置する窓へ貼り付けた四コマ漫画は、京本の部屋で藤野が見つけ出した『答え』を見失わない為の『標』にも取れましたが、
主題歌『Light song』というタイトル名を知った後は、先に述べた数多の苦難が待ち受ける航路を往く藤野を照らす灯台、その光とも思えました。

 上映時間一時間に満たない作品でありながら、『創作者が背負うアンビバレントな感情』が濃密に詰め込まれていた作品でしたね。
決して奇を衒った題材ではなく、むしろフィクションであれノンフィクションであれ既視感のある題材ではあるのですが、
秀逸で無駄のない演出、そして瑞々しさの中にも古傷を抉られるような痛みが潜まされた物語が、
観る者各々が心に持つ『いつかの自分』を想起させ、フィクションの枠を越えた強烈な没入感を生みだしていたと感じました。

 入場者特典として配布されたオリジナルストーリーボードと原作コミックスとでは、当然異なる箇所もあるのだろうと思われますし、これは原作も読まねばなるまいと使命感に駆られております。
 長々とまとまりがなく、持論に偏りがちな感想文となってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました!

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