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営業マンとドーベルマン

 二十年前。小学生の頃、捨てられていた犬を殺してしまったことがある。
 ダンボール箱に入れられて野ざらしにされていた子犬に「ご飯持ってきてあげるから待っててね」と言い、そのまま忘れてしまった。
 次の日の下校途中に思い出し、慌てて昨日と同じ空き地の隅へ行くと、忘れられた子犬はダンボールの中で冷たくなっていた。
 俺は泣いた。子犬の死を悲しみ、涙を流す権利なんてあるはずなかったのに。あの時「待っててね」なんて言わなければ良かった。
 あの子犬が俺の言葉を理解し、俺を信じてずっと待っていたのか、それともダンボールの中から這い出る力すら残っていなかったのか。
 前者の場合、あいつはきっと死ぬ瞬間俺を恨んだことだろう。俺の与えた偽りの希望も理解出来ずに、ただ衰弱していっただけの後者であってほしいと願うばかりだ。

 三十二歳の俺がなぜ今になってこんな事を考えているかというと、俺が今その子犬と同じ立場にあるからだ。
 俺はしがない営業マンで、臆病で従順な社会の犬になった。営業成績は下の下。上司からは「信念を持って続けていればいずれ成績も上がってボーナスも出るから」と言われ、朝から晩まで外回りで野ざらしにされ、そのまま見殺しにされるか捨てられるかの二択を待つ、痩せ犬だ。

 今日も児童向けの教材サンプルと大量のチラシが詰まった鞄を片手に、営業エリアを彷徨い歩く。もう何千、何万回と見知らぬ家のインターホンを押してきたのに、上手くいったためしは片手で数えるほどしかない。この仕事が自分に向いてない事は分かりきっている。しかし辞表を提出する勇気もないのが、俺という駄犬だ。名前はきっと、ユウウツ。
 手始めに数軒の家を訪れたが、インターホン越しの会話を二言三言しただけで断られた。玄関にあがることすらも許されない野良犬の気分だ。気温の高い夏の正午、汗でYシャツが背中に張り付く不快感。失敗することにはもう慣れているが、こう出鼻をくじかれるとやる気もなくなる。月毎に変わる営業エリアの中から、浅い日数で快適にサボれる場所を見つけ出すことが、今の俺の唯一といっていい特技だった。
 今いる住宅街を出て少し進むと、川にかかった二十メートル程の橋があり、その下は静かで涼しい。四日目にして発見した穴場のサボりスポットへ移動する。橋の下で大きめの石に腰掛け、タバコを吸っていると、不意に背後から声がした。

「おい」

 橋の根元の闇からこちらに近づいて来るそいつの姿を、日の光がゆっくり照らし出した。黒く短い体毛、しなやかだが、それでいてしっかり筋肉の詰まった体躯。そいつはドーベルマンだった。

「ここは俺の縄張りだ、出て行け」

 口の横から牙をむき出して、こちらを威嚇している。しかし俺も、せっかく見つけた快適な場所から引き下がるわけにはいかなかった。

「お前、ここに来たのはいつだ? 俺がここを見つけた時、お前はいなかったはずだ」
「……昨日の夜からだ」
「悪いな、四日前からここは俺の縄張りになってんだ。でも俺は犬のお前と違って縄張り意識はそこまで高くないから出て行けなんて言わない、ゆっくり休んだら良いさ。噛み付くなよ」
「たしかに俺がここへ来た時、貴様と同じ匂いが残っていた」
そう言うとドーベルマンは口を閉じて威嚇をやめた。
「それにしてもドーベルマンの野良犬なんて珍しいな。暇だしこっち来いよ、話そうぜ」
「馴れ合いはしない主義だ」
「さっき買ってきたドーナツがあるぞ、一つ食べるか?」
「よし、そっちへ行こう」

 ドーベルマンは空腹らしかった。俺の横に座り、ドーナツをものすごい勢いで食べながら話し始める。

「貴様はここで何をしているんだ」
「仕事のサボりだよ。やる気ねーんだ、俺」
「働け」
「何もしてない野良犬に言われたかねーわ。毛並は野良犬っぽくないけどな」
「やはりそう見えるか」
「ああ、最近まで誰かに飼われてたような雰囲気。臭くもないし」

俺がそう言うと、ドーベルマンは遠くを見つめ、少し考え込むような表情をしたあと、再び口を開いた。

「……俺は昨日まで警察犬だったんだ」
「なに? 逃げてきたのか?」
「ずっと厳しい訓練を受けていた。自由が欲しくて脱走した。それが昨日の話だ。今頃警察共は血眼になって俺を探しているはずだ、脱走した警察犬が民間人を襲ったなんてことがあれば、ただじゃ済まないからな」
「そんで随分長い距離走ってきて、腹減って休んでるところを俺に見つかったわけね」
「そういうことだ。通報したら噛む」
「しねーよ、せっかくの話し相手を自分から失くすようなこと。それにしても警察犬が自由を求めちゃうとはね。とんだ訳あり物犬ってところか」
「噛む」
「ステイ、ステイ。おすわり」
「命令するな。俺は自由の身だ」
「悪かった悪かった……でもすげーよお前。俺なんてちっぽけな会社から逃げることにすらビビってんのに、国家権力から逃げる勇気持ってんだから、羨ましいわ」
「俺は優秀だったからな。こいつは絶対に逃げないという人間からの信頼を逆手に取ったんだ。それに比べて貴様は勇気も、上の人間からの信頼もない、負け犬」
「犬に負け犬と呼ばれてしかも反論できない屈辱感は凄まじいものがあるな……お前が優秀だった証拠を見せてみろ証拠を!」
苦し紛れに俺が反論すると、ドーベルマンは鼻を鳴らして言った。
「ラークの9ミリ」
「こいつ……! 俺の吸ってるタバコの銘柄を……!」
「こんなもんだ」
ドーベルマンは舌を出してニヤけた。

 次の日の昼も、俺は橋の下を訪れていた。橋の根元には変わらず、野良犬とは到底思えない高貴な姿があった。

「よう、まだ捕まってなくて安心したぞ」
「またサボりに来たのか。働け」
「だったらお前も訓練所へ戻ったらどうだ? お?」

 俺がそう言うと、ドーベルマンはフンと鼻を鳴らしてそっぽを向き、それっきり「働け」と言わなくなった。買ってきたサンドイッチを傍らに置くと、近寄ってきて食べる。会話が始まる合図だ。

「お前、名前はなんていうんだ」
「名前がないことが自由の証だ」
「じゃあ俺はお前のことをなんて呼んだら良い?」
「俺は貴様のことを貴様と呼ぶ。だから貴様が俺を呼ぶ時もお前で良い」
「そんなもんか、まあそれで良いや」

 サンドイッチを食べ終えたドーベルマンがこちらの顔を見て言う。

「聞くまでもないと思うが、貴様は不向きな仕事にストレスを抱えているんだろう」
「ああ、不安と不満しかない。例え今の仕事を辞めても、上手く転職できるかとか、今よりもギリギリの生活になったらどうしようとか、そんな暗いことばっかり考えちゃってさ。お前に勇気を分けてもらいたいくらいだよ」
「そうか、いいだろう、貴様に力を貸してやる。縄張りと食い物の件で借りがあるからな。俺と同じことをしろ」
「同じことって、なんだ」
「サボるのは今日でやめて、今からいつも通り営業をしろ。俺がそれについていってサポートするから顧客を取って成績を上げろ。そして上司からの信頼を得たところで仕事を辞めろ。貴様の退職が会社にダメージを与えられるくらいになれ。負け犬にも噛み付く牙はある、ガブリといこう」
「そんな無茶な……」
「俺がいれば出来る」

 ドーベルマンに促され、俺は橋の下から再び日の当たる場所へ出た。

「変にこそこそするより堂々としてる方が安全だ」

 その言葉通り、ドーベルマンは俺の横を澄まし顔で歩き、ふと一軒家の前で立ち止まる。

「ガキのにおいがするな、家の中に人がいる気配もする。ここを訪問しろ」
「よし、わかった」

 俺は意を決してインターホンを押す。

「はい、どちらさまですか?」
「こんにちは、わたくしxx株式会社の者でして、小学生の生徒さんに教材のサンプルをお渡しして回っているんですが、玄関までよろしいでしょうか?」
「あ……うちはそういうの大丈夫……」

 わんわん!

「うわぁびっくりした!」

 インターホン越しに断られる寸前、ドーベルマンが突然鳴いて俺は飛び上がった。

「大丈夫ですか?」

 インターホン越しにも聴こえたようで、俺と同じくらいの歳の女性が驚いた表情で玄関を開けた。

「後はお前の仕事だ、行け」
「助かる」

  ドーベルマンに礼を言い、俺は家の門を開けて玄関に詰め寄る。犬を連れた訪問販売員なんて、当然初めて見るのだろう、女性の表情は驚きから怪訝そうな色に変わる。

「お邪魔します。すみません、いつもは吠えないんですけどね……失礼ですが奥様ですよね? お子さんは今何年生ですか?」
「あ、はい……今年で小学四年生の息子がいますけど」
「そうなんですね! ちなみにお子さんは今お宅にいらっしゃいますか?」
「はあ、いますけど」

 女性が答えるのと同時に、奥の部屋から男の子が顔を出した。俺はすかさずターゲットを母親から子供にチェンジする。

「あ、こんにちはー」
「こんにちは」
「ちゃんと挨拶できて偉いね。お名前はなんていうの?」
「直斗」
「直斗くんかあ、直斗くんはもう夏休みかな?」
「うん、そうだよ。あっ、犬がいる」
「おっと、バレちゃった。そうなの、おじさん実は犬と一緒に旅してるんだ」
「あはは、何それ」

 ちょっと冒険してみるか。俺は母親に尋ねる。

「犬も玄関の前まで上げて良いですか? 利口な犬なんで安心してください」

 母親は少し考えていたが、見慣れぬ犬に興奮している息子の方を見て、しぶしぶだが了承してくれた。
 俺が手招きをすると、ドーベルマンは家の門を軽々と飛び越えてこっちへやって来た。

「わ、すごい!」

 母親は思わず感嘆の声を上げ、息子の方はハートをがっちり掴まれたようだった。凛とした顔つきで玄関先まで歩いてきたドーベルマンは、親子にぺこりと頭を下げてみせた。

「わあ、可愛いね、お母さん」
「本当に賢いですね、この子」
「ええ、うちの教材を読ませているので」
「まさか、ふふふ」

 よし、ウケたぞ。もう一押しだ。

「奥様、夏休み中のお子さんのお勉強についてなんですが、うちの教材はゲーム感覚ですらすら解ける問題集なので楽しく勉強を覚えることが出来るんですよ。今は小学五年生から英語の授業を始めるとこも多いので、早めに予習しておくことに越したことはないです。なのでよろしければ……直斗くんも、どうかな? 英語の授業で活躍したくない? 活躍できたら、また犬を連れてお邪魔しに来るよ」
「ほんと!? お母さん、僕英語の勉強したい!」
「そう? じゃあ試しに取ってみようかしら」

 サインの書かれていく契約書を見て、俺はガッツポーズをこらえるのに苦労した。
 二軒目に向かう道で、ドーベルマンが俺に言う。

「最後の『よろしければ』は要らない。言い切れ」
「まさか犬からセールスの訓練を受けるとは思わなかった」

 その後、ドーベルマンの助けを借りた俺は正確無比の訪問を繰り返し、帰社時間までに五件もの契約を勝ち取った。本社へ戻る帰り道、俺の営業結果を聴いた上司は、人が変わったように俺を褒めていた。信念の賜物がどうとか言っていたが、俺の信念はお前の御託や会社の理念ではなく、隣を歩く一匹の犬の生き様に基づくものだということを教えてやりたかった。

「なあ、ありがとな」
「借りを返しただけだ、気にするな」
「明日はちゃんと犬用のエサを買ってくるから、また手伝ってくれるか?」
「都合の良い奴だな、安物だったら手伝わんぞ」
「足元見るなあ……わかったわかった。じゃあまた明日。見つかるなよ」
「ああ」

 それからの一週間、ドーベルマンと共に営業を回る俺の成績はうなぎ登りとなり、トップの背中が見えるほどになった。仏頂面だった上司の態度は日増しに良くなり、俺とは常に笑顔で話すようになった。
 いつもと同じ営業エリア、いつもと同じ橋の下、いつもと同じ話し相手。

「いやー気分良いよ、ドベだった俺がもう少しで成績トップなんてなあ。お前には本当に感謝しかない、勇気をくれてありがとうな」
「調子に乗って仕事を続けるなんて言うなよ。仕事を辞めるまでが貴様の使命だからな」
「わかってるよ、もう辞表も用意してあるから、大丈夫さ……でも、俺がこの仕事を辞めたら、お前はどうするんだ? このまま野良犬として生きていくのか?」
「俺か? 俺は……」

 何かを言いかけたドーベルマンの耳が動き、上を見上げた。驚いたような表情。こいつがこんな顔をするのを初めて見た。橋の上がどうも騒がしい。陰から顔を出して覗くと、警官の姿が三人確認できた。

「まずい、警察だ。お前を探してるんだ」
「そうか……奴ら、ロックを使いやがったな」
「ロック?」
「俺は優秀だ。しかし警察犬の時は今の貴様と同じナンバー2だった。何をやっても勝てない、俺の一歩先を行く奴がいた、そいつの名が……」

 ドーベルマンの言葉を遮るように、橋の上から何かが俺たちの眼前に飛び降りて来た。着地の寸前に俺たちの方へ翻り、低く唸り声を上げるそれは、俺の話し相手よりも大きい別のドーベルマン、ロックだった。

「よう、ロック。久しぶりだな、まだ人間の使いっ走りやってるのか」
「ようやく見つけた。テメェ、勝手に逃げ出して俺の手を煩わせやがって。訓練所に送り返してやる」

 そんなやりとりを俺は見ていることしか出来なかった。ロックの後を追って警官たちが橋の下に降りてくる。脱走した同僚の居場所を伝えるため、ロックが三度吠えた。
 気づくと身体が勝手に動いていた、俺はロックの前に立ちはだかり、背後にいる友人に向かって叫ぶ。

「逃げろ、フリー。自由になるお前の名前だ、お気に召したか?」
「ああ……さっきは言い損ねたが、俺は貴様が仕事を辞めた後は、貴様に飼われるのも良いなと考えていた。俺の名前は今日からフリーだ」

 そう言い残してフリーは走り出した。今にも俺に飛びかかろうとしているロックの背後で、警官が何かを構えているのが見えた。数秒の間を置いて、俺の脇を何か小さな物が飛んで行った。ロックが俺に向かってニヤリと笑い、踵を返して警官の方へ戻っていった。
 恐る恐る振り返ると、フリーが倒れている。右の後ろ足には、赤い綿のついた針が突き刺さっていた。

「お怪我はありませんでしたか!?」

警官が駆け寄ってきて、俺に話しかける。どうやらフリーが俺を襲ったと勘違いしているらしい。

「……あの犬はどうなるんですか?」

やっとの思いで口に出した俺の質問に、警官は答える。

「アレは訓練所に戻します。これ以上脱走を試みたり、言うことを聞かない場合は殺処分も視野に入れています。お騒がせしてすみませんでした」

 ケージに入れられて運ばれていくフリーと、二十年前に死なせてしまった捨て犬がだぶり「必ず迎えにいくから待っててくれ」などという無責任な言葉はかけられなかった。


 それから俺は以前と同じように一人で外回りをした。着々と契約を増やしていき、無事に営業成績トップとなった、そしてある日突然辞表を提出し、困惑する上司を尻目に、俺はフリーとの約束を果たした。

 これまでの杞憂が嘘だったかのように、俺はすんなり印刷会社に転職することが出来た。引っ越し先はなんとなくペット可のマンションにした。
 生活が徐々に安定してきたある日、なんとなく観ていたテレビで、麻薬密売組織のアジトに警官隊が踏み込んだ際、一匹の警察犬が撃ち殺されたというニュースを観た。
 ニュースキャスターがマックスと呼んだそのドーベルマンは、間違いなく俺がフリーと名付けた友人だった。
 俺は県内の訓練所をあちこち探し回り、ようやくフリーの墓を見つけた。
 部外者の訪問に怪訝な表情を浮かべた調教師を見て、俺は営業をしていた時のことを思い出した。墓の前に立つと、どこからか一匹のドーベルマンが近寄ってきて、俺の横に座った。

「……ロックか」
「よう、久しぶりだな。こいつ、待ってたんだぜ。聞きたくもない人間の言うこと聞いて、お前のことをずっと待ってたんだぜ。死んでから来たって、何にもならねーのに。バカだな。お前」

 俺が肩を落として泣いている間、ロックはその場を動かなかった。

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