世界平和

「貴方様に、一度限りの時を止める能力を授けます、どうぞご自由にお使いください」

 その老人は、世界中の様々な時間、様々な場所へ現れ、目の前の人間にそう投げかけた。
 老人の言葉を信じない者、半信半疑の者、最初から信じた者……。反応は違えど、その能力を授かった人々は、最後には必ず時を止めた。

 能力を授かったある男は、大企業A社の社長だった。
 内側から鍵のかかった社長室に、自分より立派な口ひげをたくわえた紳士風の老人が現れた時は心底驚いたが、彼はすぐさま能力を使った。時を止め、ライバル会社であるB社へと足を運び、コンピュータを立ち上げ、セキュリティを解除し、B社の顧客情報を全て流出させた。
 そして、時が止まっている間に証拠を隠滅し、悠々と自社に戻り、社長室の椅子に腰をかけたところで、時を動かした。
 B社の個人情報漏洩問題が大々的に報道されるのに、そう時間はかからなかった。テレビではひっきりなしに「過去最悪規模の流出事件」などと報道が行われている。彼は声を上げて笑った。B社の社長は今回起きた事件の責任を負い、辞職するらしい。警察も、まさか自分がやったとは思うまい。これでB社の信頼は失われ、倒産の一途を辿るだろう。そうなれば、晴れて我が社はナンバーワンだ。
「あなたには感謝しているよ、分け前を差し上げなけりゃならないな」
 彼が、未だ緊急速報を流しているテレビ画面から目を離し、辺りを見回したが、さきほどまでそこにいたはずの老人の姿はなかった。


 またある男は、小さな途上国の兵士だった。
 領土をめぐる内戦の戦火の中で、廃墟になった建物に身を隠していたところ、老人に呼び止められたのだ。咄嗟に銃を構え発泡しようとしたが、老人の優しげな表情と、あまりに場違いなスーツ姿に、彼は撃つのを躊躇い、戸惑った。その時、彼の視界の端で何かが動いた。建物に敵の兵士が入ってきている。確認できただけで六人。余りにも不利な状況だ、見つかったら間違いなく蜂の巣にされるだろう。絶体絶命のその時、神に祈るようにして、彼は時を止めた。
 止まった敵を殺すのは、トーストにジャムを塗るくらい簡単だった。
 彼は手にしたマシンガンで、敵の小隊をたった一人で全滅させた。味方部隊への帰り道で、彼は時を動かした。この活躍で、自分は勲章を与えられることになるだろう。
「あなたは一体何者なんだ? 俺はあなたの能力で命を助けられたばかりか、素晴らしい戦果まで上げることができた。あなたはきっと神様なのだろうな」
 男がそう言って振り返ると、さきほどまで後ろをついてきていた老人は、こつ然と姿を消していた。


 ある女は、大学受験を一週間後に控えた学生だった。
 家族の寝静まった深夜、彼女は二階の自室でひとり、受験勉強に勤しんでいた。手早く勉強に目処をつけ、ノートを閉じた彼女の前髪を、冷たい夜風がなびかせた。
「窓なんて開けてたかな」
 彼女が窓の方へ目をやると、帽子をかぶった小柄なシルエットが、風にゆらめくカーテンに映しだされていた。
 深夜、二階の屋根に、見知らぬ誰かが立っている。彼女の悲鳴を、老人の言葉とやわらかい笑顔がさえぎった。老人のなげかけた言葉に対し、彼女は何度も真偽を問い詰めたが、老人は何も言わずに微笑むばかりだった。

 その一週間後の受験当日。数学試験の終了十五分前に、彼女は藁にもすがる思いで時を止めた。数学は彼女が最も苦手とする科目だった。
 彼女はおどおどしながら、自分以外が静止した教室を歩きまわった。わからなかった問題は、最低でも十人の受験生の解答用紙を見て答えを合わせた。
 入念なチェックを済ませた彼女は、自分の席に着くと、時を動かした。
 持参した時計は再び針を動かし、残り十五分の制限時間を刻み始めた。十五分の間、彼女は飛び上がって喜びたい気持ちをこらえるのに必死だった。
 時を止める前と止めた後で、数学の点数は飛躍的に向上しただろう。もちろん、志望校に合格する可能性も――。
 全教科の試験を終えた彼女は、老人に一言お礼を言うため、足早に会場を出た。しかし、今朝、試験会場の入り口に現れ、自分を送り出してくれた老人の姿はなかった。


 それからも老人は、何百人、何千人もの人に能力を与え続けた。
 しかし、老人の噂はどこにも流れなかった。なぜなら、能力を授かった人間は皆、その能力を決して他言できない悪事に使用したためであった。
 強盗によって金品を盗んだ者、恨んでいた相手を殺害した者、停止した女性を強姦する者――。
 たった一つの、たった一度きりの能力によって、世界の治安は僅かずつではあるが、悪化していった。
 しかし、その原因が公になることは決してなかった。


「貴方様に、一度限りの時を止める能力を授けます、どうぞご自由にお使いください」
 あるとき老人は、小さなアパートの一室にいた。
 目の前には背中を丸めて座椅子に腰掛けた青年がいた。彼はビクリとして老人を見やると、驚いた様子で目を見開いた。手はパソコンのキーボード上で固まっている。
 しかし彼はすぐに虚ろな目に戻り、パソコンの画面に向き直った。
「……あなたは一体誰なんですか? 玄関には鍵がかかっていたはずなのに、どうやってこの部屋に入ってこれたんですか?」
 彼は画面に目を向けたまま問いかけた。老人は微笑んだまま、何も言わない。しばらくすると彼は再び手を止め、老人の方を見た。
「さっき言った事って、本当なんですか?」
 やはり老人は微笑むばかりだったが、青年はその笑みを肯定の意と捉えたようだった。
「そうですか、時を止める能力ですか……」
 わずかな沈黙の後、彼は語り始めた。
「俺は、小学校にあがってから高校を卒業するまで、ずっといじめられてたんです。俺をいじめてた奴らから逃れようと猛勉強して入った大学でも、授業についていけなくなり、今はこうして部屋に引きこもって同じことを繰り返す毎日です。過去の事も思い出したくない、未来も見えない、この意味、わかりますか?」
 彼は弱々しい声で、老人に二つ目の質問をした。
「時間は、いつまで止められるんですか?」
「あなたが時間を動かそうと考えるまでです」
 老人が答えると、少年の目に、僅かながら光が戻った気がした。
「なら、今、時を止めてください」

 完全に時間の止まった世界の、とある国の、とある街、とあるアパートの一室で、唯一動くことを認められた青年は、首を吊って自殺した。
 その様子を一部始終を眺めていた老人は、今までとは違った笑みを浮かべていた。
「なるほど、そうきたか。計画とは違ったが、これでこの世界はもうおしまいだな」
 老人は声を上げて笑い出した。
「まったくおもしれぇ話だ。平和と滅亡がいっぺんに訪れやがった」

 どこともなく去っていく老人の頭には角が二本、背中には大きな翼、そして尻からは、先端の鋭い尻尾が生えていた。
 世界は、二度と動き出すことはなかった。

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