Talk-Night表紙_02-1

#02青木淳×藪前知子①アートは「公共」を問い直す

書籍 『アナザーユートピア』(NTT出版)を起点として、これからの街づくりのヒントを探るトークイベント「Talk Night オープンスペースから街の未来を考える」。2019年11月21日に開催した第二回目では、「街はなぜアートを必要とするのか」をテーマとし、建築家の青木淳氏と東京都現代美術館学芸員の藪前知子氏をお招きしてお話を伺いました。(全3回)
▶②「地域アート」は何をもたらしたのか?
▶③アートは都市を挑発する

「原っぱ」とアート

――今日は、建築家の青木淳さんとキュレーターの藪前知子さんと、アートという切り口からオープンスペースのあり方について深めていきたいと思います。

青木さんは、今年、東京藝術大学の教授に就任されました。また、来年リニューアル・オープンする京都市美術館(通称:京都市京セラ美術館)の館長にも就任され、アートと建築・都市のかかわりについてもっとも深く思考されています。

藪前さんは、東京都現代美術館のキュレーターとして、会田誠さんや岡﨑乾二郎さんといった様々な現代美術家の展覧会を手がけられていますが、近年は美術館の外に飛び出す活動もたくさんされています。ゲストキュレーターとして札幌国際芸術祭の第2回に参加されたり、「東京計画2019」という展示を企画されたりと、美術館にとどまらない活動をされています。

『アナザーユートピア』のなかで、青木さんは文学における「原っぱ」の系譜について語られています。「原っぱ」にも時代によって変遷があり、たとえば、青木さんの時代の原っぱは、槇さんの時代の野原のような原っぱとは異なり、ドラえもんの空き地のような開発途上の風景として書かれています。このなかで例に挙げられている、北杜夫さんの原っぱが青山墓地であったということで、この会場のある青山一丁目周辺の印象を伺うところから話を始められたらと思います。

画像1

青木:青山と原っぱというと、北杜夫さんの『幽霊』や『楡家の人びと』に、このエリアの話が出てきます。『幽霊』は、主人公が青山墓地の中で迷子になり、やっと知っているところに出たと思ったらそれは間違いで、どん底に落っこちるという話です。昭和初期に生まれた槇さん世代の人にとって、青山墓地の周りは野原みたいな感じでした。

東京には皇居があり、そこだけは開発されないわけですが、青山墓地も同じように開発されることはないので、都心の中でこうした空のひらけた環境は気持ちいいですね。

――もともと、青木さんは、「原っぱ」と「遊園地」という空間の二つのあり方を提示され、前者を、「人々が行動することによって楽しさを発見する空間」、後者を「人々の楽しみ方があらかじめ与えられている空間」と定義され、いわば非計画と計画のあいだを行き来しながら、「原っぱ」のような建築空間をつくることを試みてこられました。藪前さんは青木さんの論考を読まれて、どういった感想をお持ちになりましたか?

画像2

藪前:『アナザーユートピア』では、青木さんの文章が冒頭にあり、私の論考が最後にあって、ちょうど全体を挟むような形になっています。槇さんが投げかけた問いに対して、私は美術の立場から、建築の方とは違う視点で、例えば都市計画では捉えられない、あらかじめコントロールできない動きをどのように取り込んでいくかを考えました。青木さんは、「原っぱ」と「遊園地」というこれまで展開されてきた2つの概念をアップデートさせ、遊園地的なものから逸脱していったところに原っぱがあるのではないかと語っています。それはアートの領域とも近接する考え方ですね。

青木さんは、Chim↑Pomの卯城竜太さんと松田修さんという2人のアーティストの対談集『公の時代』 (朝日出版社)に登場されています。日本のアートプロジェクトにおける「公」という言葉をめぐって、大正時代の前衛運動を対照させるなどしながら語った本なのですが、そこで『アナザーユートピア』で展開された論をより個別に訴えていくようなお話をされていました。美術の領域との相互作用を感じました。

モノの見方を変えるアートの力

青木:藪前さんの論考にも、Chim↑Pomの歌舞伎町のプロジェクトが出てきますね。旧コマ劇場裏の、取り壊しの決まったビルで行われた「また明日も観てくれるかな?」 (2016)という展覧会です。僕も見に行きましたが、すごく良かったですね。ビルの下の階から上の階までスラブの真ん中をくり抜いて、切り取られたコンクリートの床と家具の積層を《ビルバーガー》と名付けた作品、元の部屋の痕跡を青焼きした作品、ルンバみたいな掃除ロボットを使って床にペンキを塗る作品など、フロアごとに違う作品が展示されていました。

それを見た後、ビルの外に出ると、夕方のコマ劇前広場(現 歌舞伎町シネシティ広場)に、踊っている人や街頭演説をする人、屋外のカフェでお茶を飲んでいる人たちがいました。広場は本来何をしてもいい場所なのですが、なにをしてもいいがゆえに、管理する側は怖いので、できたらつくりたくない。だから日本には、ちゃんとした広場がないと言われていますが、その数少ない広場のひとつで、人々が三々五々、バラバラなことをしている状況がありました。それが、すごく美しかった。Chim↑Pomのビルの使い方を見た後は、街に対する見方も影響を受けて、歌舞伎町ってすごくいい街なんだなと思いました。

画像3

藪前:「また明日も観てくれるかな?」展は、来場者は、「自己責任でこの中に入ります」という書面にサインをして展示空間に入るのですが、美術館の人間からすると床に大きな穴が開いていたりと、大変危険な場所でした。彼らの問題意識のひとつに、「公共」という考え方の肥大化があります。英語では「public」「open」「common」といった複数の意味が、日本語では「公共」という一語に集約され、言葉の中で矛盾しあっています。すべての人に開かれた公の場所はどのように実現可能か。美術館も公園も、「公共」の場所は今はどこでも規制だらけですが、彼らは「公共」の資金に頼らず、自己責任の名のもとに「みんなに開かれた」プロジェクトを行いました。世の中への大きな問いかけで、大変刺激的でした。

青木:先ほど話に出た『公の時代』では、フランスから波及した無審査・自由出品制の公募展である、日本アンデパンダン展の歴史が紐解かれています。大正時代はさまざまな表現のある面白い時期だったが、一方で、公権力からの締めつけが厳しくなった時期でもあったと語られています。

現代では、「公共」という言葉には2つの意味があって、ひとつは「公権力」という国家の権力。ある強制力を持つ、昔でいう「お上」のことですね。「公共建築」という言葉も、公共性があるという意味ではなく、役所が設置する建築のことを指します。もうひとつの意味は、一般の人たちのものであること。つまり「みんな」が公共なんですね。この2つの意味はまったく違うのに、混同されている。

藪前:話が少しずれますが、シリコンバレーには、西海岸のカウンター・カルチャーの影響のもと、政治主導の社会構造とは異なる仕組みをつくっていこうというイノベーション精神があると言われますよね。でも日本の場合は、思想よりも構造だけが優先しています。それは「公共」という言葉に青木さんがおっしゃる2つの意味、「みんな」と「お上」が混同して含まれていることが影響しているように思います。

オープンかつクローズドな公共空間のあり方をさがして

藪前:建築家の塚本由晴さんは、『アナザーユートピア』のなかで「オーナーシップ、オーサーシップからメンバーシップへ」と書かれていますが、あまねく開いていくことが本当にいいことなのか、美術に関わる人間はきちんと考える必要があります。

コンセプチュアルアートはとりわけ、一定の文脈や意味の共有が作品理解の基本になりますが、このインターネット全盛の時代、文脈や意味の共有は丁寧にしていかないと、表面的に切り取られ炎上しかねません。私も、そうした問題意識のもとで「オープンかつクローズド」な空間のあり方ついて書きました。

画像7

青木:例えば、卯城さんたちは、どんな作品でも出品できるアンデパンダン展は、みんなのものであるとも言えるけれど、逆にいろんな意見があり背景が共有できないことによる軛もあると話しています。であれば、ある程度クローズドな人たちでやった方が実際に面白いものができるのではないか、と。

建築の話に関連して、僕が今一番面白いと思うのは、同好の士が集まって何かをやる「クラブ」という組織のあり方です。クラブは、誰かからお金をもらったり、補助金を受けてやるのではなく、みんなでお金を出しあって運営するものです。会員にならないと入れないので、閉じている。でも、会員になれば入れるわけで、実は開いている。これは、閉じつつ開くという、今の世の中で一番可能性のある組織のあり方ではないかもしれません。

ヨーロッパには結構多くて、例えば、日建設計が改修設計をしているFCバルセロナの《カンプ・ノウ・スタジアム》のクライアントは、実はファンクラブです。つまり、バルセロナ市ではなく、サッカーチームのファン組織が施主なのです。ファンクラブなので、バルセロナを応援するメンバーみんなが話し合う。僕は、京都市京セラ美術館 の館長になりましたが、美術館の仕組みをいかにクラブに近づけていけるかが、これからの挑戦です。

藪前:日本も江戸時代に「富士講」のような講という組織がありましたが、近代以降なくなってしまいますね。この夏、下北沢のスズナリで「鉄割アルバストロケット」 の公演を見たときにも強く思ったのですが、エログロやタブーも含まれた何でもありのストーリーが当たり前に展開している。そこには、お金を払ってこの空間に入った人たちの、表現の自由のボーダーについての共有がありました。

演劇と比べると、美術館はもう一段階開かれていて、その公共的な仕組みの中でいろいろな弊害も起きています。美術館の鑑賞体験は、来る人が、そこを自分の空間だと感じ、主体的に作品に向きあうことが求められます。それに加えて、「公共のお金」で運営されているという了解事項もある。苦情を言う人は、自分の空間に自分が認められないものが置かれている」という怒りを感じています。クラブという仕組みについては青木さんのお考えに共感するのですが、美術館特有の問題もあるのではないかと思います。

画像5

画像6

画像7

→ 次回 青木淳×藪前知子
②「地域アート」は何をもたらしたのか?


日時場所
2019年11月21日(木)@シェアグリーン南青山
主催
 NTT都市開発株式会社 デザイン戦略室
撮影
高橋宗正
グラフィックレコーディング
 藤田ハルノ+津布久遊 (テクストの庭)