自らによって機会を「掴み」、機会によって自らを変えよ~『他者と働く』を読んで~
みなさまこんにちは!
三年の新野です!
今日は午前中雨がすごかったですね。
数年に一度の大雨とか。
こんな日は家でぼーっとしてるのも悪くないのではないかと思っております。
さて、今日は先ほど読み終えた『他者と働く 「わかりあえなさ」から始める組織論』(宇田川元一 著 News Picksパブリッシング) について、思うことがあったので筆を(キーボードを)取らせていただきます。
思いっきり先生の本ですが笑
なんとなく読まなかったのは、身内ゆえの・・・といいましょうか笑
そんな感覚があり長らく手に取っていなかったのですが、ゼミの課題に出てきたこともあり、いい機会だなと読んだ次第です。
(そういうことなんで、先生許してくださいw)
さて、ここからお話しするのは、少しセンシティブで、ありがちな話でみんな一度は経験したことがあるとおもわれることです。
話す前に言っておきますが、僕は今ゼミの先輩・同期・後輩が好きです。
なので、変に気を悪くしないでいただきたい。笑
語ることも、私をあなたの側から見てもらう上では重要な気がするので。
さて、行きましょうか。
みんなが『敵に見えた』新入生歓迎会
みなさま、何かイベントを企画したり、会社内でリーダー的な役割についたり、何かを動かさなければいけない立場になった経験は、少なからず一度はあるのではないでしょうか。
そういった経験を踏まえて、「いやあ運営することは楽しい」だったり、「もう2度とやるものか」などと振り返ったりするのではないかと思うのですが、
明らかに僕は後者の人間でした。笑
少し前に、新入生歓迎会の記事を書きました。
結果として、このように参加していただいたゼミ生の皆様が、非常に楽しんでいただき、やってよかったと思うのですが、
正直運営していて、怒りや、この人はなんでこんな自分勝手なんだろうと思うことが多々ありました。
だって僕からしたら、ドタキャンされたり、お願いしたタスクはやってきてくれないし、連絡も取れなかったりするのですから
イライラしながら開催まで計画していたのは確かです。
「みんなすげえ怠惰だな。俺こんなに頑張ってんのに」
「なんでこの人はこんな身勝手なんだろう。ゼミの活動を優先しろよ」
などと思ったりしたわけです。
お恥ずかしいですが、流石に我慢の限界でした。
「なぜみんなそんなに自分勝手なのか」
「謝ってほしい」
「俺はこんなに頑張っているのに」
等々・・・w
でも、ふと考えるに、『他者と働く』でも述べられていましたが、僕の思考に足りていなかったのは、
僕自身がなぜこんなに怒っているのか?
僕は他の人から見てどういう風に見られているのか?
彼らには彼らなりの言い分があるのではないか?
という点です。
僕にはおそらく、自分の価値観として、「ゼミの活動は優先されるべきだ」と思っていたし、人が困っているのに非協力的な人はおかしいといった考えがあったはずです。
さらに、僕自身は、話すと怖く、何を言っても「正しい論理」で返してしまうし、ゼミ生からしたら、私自身が抱えている問題も「正しく」返されてしまう、(私が困っているのは正論が通じないところなのに。)という捉えられ方をされている、というのも、よくよく思い返してみればヒントはたくさんあったし、なんなら薄々気づいてもいたのです。
でも、正直その自分の側面に気づくことから逃げてもいたのです。逃げるのは簡単です。
「なんでこんなものができないんだろう、やればいいんだよ」
と他者に『弱い』、というレッテルを貼ればいいだけですから。
その上で、春休みが始まる前に、春休み中の活動について、
「絶対みんなダラダラするんだから、やらなくてもいいんじゃないか。やる覚悟はあるのか?」
などとある種の『踏み絵』さえも踏ませようとしていたのだから、尚更でしょう。笑
そういった意味で、僕は、自分の価値観を守るために、それに向き合うことをやめていた、ただの弱い人間であった、のかもしれません。
よくよく考えれば、やりようはいくらでもあったわけです。どっちが善い、悪いといった話ではないわけです。
歓迎会に皆が協力してくれるには、私はどうすればいいのか?
私はどう捉えられているのか?
彼らは何を考えて行動しているのだろうか?
といった、僕自身との対話、僕以外のゼミ生との対話をしてみるのが重要だったのでしょう。
歓迎会の開催前夜、先生と話しました。(電話でまるまる1時間くらい笑 終話したのは1時半とかだった気がする笑)
「人間なんて、『そんなもん』なんですよ。」
「弱いし、簡単に流される」
「でも、そんなもんと思っていたら気持ちが楽になったりするよね」
他者と働くにも同様の記述があります。
形を変えて、同じような過ち、同じような弱さから人間は逃れることはできないのではないか。だとすれば、私は、自分の痛みばかりに目を向けていることは、公平ではないと思った。
その弱さが存在していることについて、私に痛みを与えたことへの責任という物語で圧殺して見て見ぬふりをしていても、どこかで残る違和感を私は認めなければならなかった。
だとすれば、
僕は他のゼミ生に腹を立て、悪者にし、もう2度としない、などとへそを曲げること自体が間違い
であって、
やりようもたくさんあったし、誰も別に意図して僕をいじめようとしているわけでもないし、人は利己的だから、とへそを曲げる必要もないのです。
人間は弱い、と捉えるならば、こんなにも腹をたてる必要もないのです。
そういった意味で、振り返ればタフな経験ではありつつも、大きな学びを得ることのできる機会であったと、今は思います。
チャレンジを忘れない
上記のような経験を、僕は大して規模も、人数もいない、ただのゼミの一歓迎会にてできたわけです。
世の中にはもっとすごい立場の人はたくさんいそうですね。
そういった経験自体に、疑問を持つ人も多々いるかと思います。
「なんの意味があるのか?めんどくさいだけではないか」
と。
でも、よくよく考えてみると、意味とは、自分が過去につける意味合いによって変わるのではないでしょうか。
どんなに他者からみてつまらない経験も、自分がそれにどんな意味を持たせるのかによって千差万別です。
そして、価値というのは、今現時点の価値観と、将来の価値観によって変化するものであるということも忘れてはなりません。
こんなの、意味ないじゃないかと思っていたものが、将来に意味を有することになることも多々あるわけです。
でも、それは他者から言われたところで本人には刺さらないのも知っています。
他の人に、「これはこんだけすごくて、やる価値のあるものなんだよ!」と言われたところで、本人からしたら、「ふーん」なわけですよ笑 ,(人に勧められる本とかって読みたくなくありません?笑)
だから、チャレンジすることを忘れないでほしいなぁ、と切に思います。
ただでさえ、一つのことに集中することが善とされた時代は変わり、複数の経験が、マルチタスクが求められる時代かと、個人的には思います。
その中において、(自分を含め)若者には、価値という面において、なにかをやる・やらないを決めない方が、僕はいいと思います。
そんなことも考えさせられた一イベントでしたとさ。
そういった意味で、今日のタイトルでした。リクルート江副浩正氏の言葉をもじっただけですが。変わる機会なんて作り出さなくてもその辺にゴロゴロ転がってますから笑
こんなことを振り返る機会になった先生の『他者と働く』、是非読んでみてくださいね笑
今日は終わり!読んでくれてありがとうございました!
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