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"cute"によせて

わたしが「かわいい」というとき、そのことばには、心の底から肯定する気持ち、あこがれ、親しみ、愛しさや慈しみ、尊敬、発見、あたらしい目がひらいたことへのよろこびやおどろき、そのほかにもまだ言い尽くせないたくさんの意味が含まれていて、そのときわたしは、そのひとやもののくっきりとした存在、意志を感じている。

妥協しないもの、日々考え感じ見つめ追求しつづけるもの、をそれぞれのひとが持ちながら、それぞれ持っているものを認めあいたい。だれかが心から「かわいい」と思うものを自分も好きになっていたり、だれかが心から「かわいい」というそのひとのようすこそがかわいいと思ったりするとき、わたしはそのひとの大切なところに触れることができたような気がして、うれしく切なくなる。
かわいいひとは、優しくてかしこいひとだ。からだのすみずみまで自分をゆきわたらせ、世界をしっかりと見つめているひとだ。

このごろ、自分の楽器を自分でつくる女の子たちにつづけて出会った。水道管を削ってフルートをつくったひとと、木を削って大きな、何人もで叩ける太鼓をつくったひとだ。世界にひとつの楽器で演奏をし、つくること使うことについて語る彼女たちはとてもかわいかった。衝動に突き動かされながらも冷静に考え抜いているところ、やりたい、つくりたいという気持ちがまんなかにあって、その気持ちをいちばん大切にしながらやり抜いているところ、きらきらしたものがたくさん見えて、心を打たれる。真摯に情熱的につくられたフルートと太鼓は、もちろんすごくかわいくて、彼女たちによく似合っていた。からだと楽器はつながっていて、そこまで含めてそのひとなのだった。
「かたちにする」ということの力。考え、手を動かし、発見をしながらつくりだされたもの。そのひとの気配に満ちたもの。そういうものを、わたしは「かわいい」と思う。
遊び友だち・やかましみさきさんが、友だちの作曲家がつくった曲の演奏を聴きにいったことを話してくれた。「この曲は演奏者たちが考えて即興的にするアンサンブルで、同じ演奏は二度とない。楽譜にはパターンの指示(参考)などはあるが、演奏者が主観的に思う『kawaii』音を考えて繰り出すというもの。ギター、サックス、ピアノ、声、エレクトロニクス(電子音響)…作曲者本人がかわいいと思う音を演奏するのではなく、演奏者が考えて演奏する」のだという。それでいてもちろん、そうしてうまれる音のむこうには作曲者がいる。音をつくるということは、楽器づくりにも似ているのかもしれない、と思う。
曲をつくったひとも、演奏するひとも、自分の「かわいい」を感じとり、みつけ、伝えようとする意志に満ちているのだろう。そうでなければ成り立たない表現。
みさきさんは、「小さくても、頼りなくても、そのままでいいんだ」とも言ってくれた。
かわいいものは、ちいさくて頼りない。大きな声にすぐにかき消されそうになる。でも、しっかりとしたからだをもって、血を通わせて、たしかな脈を打ちながら、そこにある、そこにいるのだ。

このあいだ、ひさしぶりに服を買った。
1年ほど前に会社員を辞め、(もともと少なかった)収入が大幅に減ってから、買い物をすることや何かを所有することについて、以前よりずっと自分ごととして考えられるようになった気がする。「とり急ぎ」「とりあえず」「むやみやたらに」なにかがほしい、と思うことがなくなった。うっすらかわいいっぽいものが何もかもほしくなることや、そんなにかわいくないけどまあこれでいいやとお金を出すことがなくなった。いま持っているものをじっくりとみて、かわいい、と思うものをちゃんと大切にできるようになってきた。
以前は、考える暇もない忙しさや話したいことを話せない環境、よくわからないまま過ぎていく日々のストレスのなか、なんとなくかわいいっぽを手に入れて、そのときだけすこし慰められた気分になったり、上辺だけ満足したりしていたのだった。そういうものはほんとうに自分のものにできないまま、部屋のすみで埃をかぶることになるし、使い捨てられて死んでいくのだった。
ひさしぶりに買った服は、本当はエプロンで、でもスカートとして着ることもできる。すそにボタンがついていて、とめるとずぼんにもなる(赤ちゃんの服みたいな)。
それはすばらしくかわいい友だちのお店で買った。おいている服や雑貨はもちろんすてきなのだけど、かわいくて有能な店員さんたちがいるからこそ、かわいさがずっとよくわかるし、発見できるのだった。目をひらかせて、みつける手助けをしてくれる。それは、お店のあるじが、心からかわいくて大好きで信頼しているものやひとを集めてできた場所だからなのだ。
そのエプロンは、ひとめみてかわいいと思った。わたしには安い買い物ではなかったけれど、これはたしかに自分にぴったりあったものだとわかったし、わたしが着ることで、わたしも服もお店のひとも、みんながうれしくなると思った。
そのお店では、ほかにもたくさんのひとが、自分にぴったりのものに出会っているようだった。どれもかわいいけど、どれでもいいわけでは全然ないのだ。自分にふさわしいものを選びとる。お金を払うということは、こういうことだ。

ゆうべはハンバートハンバートのライブをみた。
イベントの中止が相次ぐなか、彼らは渋谷クラブクアトロでのライブを行い、来場できないひとへは払い戻し対応をし、「いろいろあるけどやっぱりみなさんにライブを楽しんで欲しい」と、ライブのようすを生配信していたのだった。
(わたしとハンバートハンバートについて。ハンバートハンバートは、長いこと聴いたことがなかった。きっと好きだと思っていたけど、もうこんなに大人気でまわりにも好きだというひとがたくさんいて、出遅れた感があった。自分から聴きに行くことはなんとなくしておらず、だれかに一押ししてもらうこと、そのタイミングを待っている感じでいた。そして去年の夏、友だちとの手紙のやり取りのなか、いろいろな話をするなかで、あるときハンバートハンバートがキーワードみたいにしてついに登場した。その友だちは以前ライブに行ったりしていたそうだけれどしばらく離れていて、彼女にとっても、ハンバートハンバートと再会したいようなタイミングが訪れていたのだ。そうして彼女がチケットをとってくれたりCDを貸してくれたりして、わたしはハンバートハンバートのライブへ行った。ライブはすばらしかった。まさに、そのとき、わたしにとって必要なひとたちに出会えた、と思った。そしてわたしはハーモニカを買った。)
生配信のことはなにげなく開いたツイッターで知り、見始めたときはもう終盤だった。ふたりはいつものように、かわいくて、かわいくて、かわいかった。
「長いこと待っていたんだ」で、ふたりがひとつのマイクで歌うのが好きだ。ふたりのあいだには信頼や希望や決意がみえるようだった。なんとなく自分に重ねて聴いた。「まさにはじまったばかり」「うまくなくていいから」と、わたしにいってくれているような気がした。
そのとき、ステージ側のカメラが客席を映した。みんなマスクをしていた。それは見たことのない光景で、異様な雰囲気、恐ろしさを感じてわたしは思わず息をのんだ。
こんななかで、いつものようににこにこと、まっすぐに、ふたりは歌って話していたのか。びっくりして、すごくて、すてきで、かわいくて、やさしくて、涙がでた。

わたしはこんなふうにしたいのだな、と思う。
絶望を歌いあげるのではなく、でも決して目をそらしているのでもなく、かわいさを、やさしさを、ちいさなものをすくいあげるというやり方で向きあっていくのだ。おだやかさと激烈さを持ちあわせて、自分のやり方で、いつものように表現するということ。

わたしは自分のことを心からかわいいと思うことがまだできないけれど、「かわいい」といってくれるひとがいる。
それはもちろん容姿のできばえについてではなく、わたしがつくるもの、わたしの話したことばやふるまいや考えていること、わたしがまわりにおいたり身につけたいと思う好きなもの……わたしの表面のかたちではなくて、わたしのまわりにフワフワしているいろんなものをみとめて、「かわいい」と表現してくれるのだ。わたしも、すきなひとたちのことを、そんなふうにかわいいと思う。
自分のことを「かわいいなあ〜」と心からいえるようになったら、もっともっと自由になれるのかもしれない。あたらしい目がまたひらくのかも。

みつめること、求めることをやめないでいれば、感覚はとぎすまされてゆく。わたしはどんどんかわいいもの、かわいいひとたちに出会っていく。そうやって受け取れることはとてもうれしくて幸せで、でも、あわよくばわたしもつなげてゆきたい。わたしがつくるものや話すことが、だれかにとって自分のかわいいを発見したり、気がついたり、つくりだしたりすることの手がかりになるといい。

(2020.2.29)

グループ展"cute"(2020.3.2-8 ギャラリーきのね)に参加したとき、いつも大事にしている「かわいい」ということばに寄せて書いた文章です。

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