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和ろうそくを巡る冒険〜漆蝋編〜

さて、今週からは「和ろうそく」です!実はこの和ろうそく。2つ種類があるということはご存知でしょうか?タイトルでネタバレしていますが本日は最初の「和ろうそく」に関して書いていきます。前回は中国における蝋燭史を調べていますので、気になる方はぜひこちらもご覧ください!

さて、本題に入っていきます。「和ろうそく」は現在櫨の実を原料とした櫨蝋が使用されているのですが、実はもう一種類、日本にとても馴染みの深い植物を原料とした「和ろうそく」が作られていました。その原料となったのが「漆の実」です。

漆といえば漆器や蒔絵などの樹液を使った工芸品のイメージだったのですが、「漆の実」からも蝋燭の原料となる植物油を作るのとができたのです。これがもう一つの原料、漆蝋と呼ばれるものでした。漆蝋は櫨蝋よりも歴史は古く、室町時代中期には既に作られていたようです。今回は日本の蝋燭の歴史を漆蝋を中心に調べてみました!

■日本への蝋燭の伝来

日本の蝋燭の歴史は奈良時代に遡ります。722年奈良県大安寺の記録に、元正天皇からの賜り品として「蝋燭」の文字があり、この記述が日本史における最初の蝋燭の記述のようです。同じ時期にできた正倉院からも「白銅剪子」と言う芯切りが見つかっており既に現在のような形で蝋燭は使われていたと推察できます。後日まとめられた「和名類聚抄」には、蝋燭の解説として「唐式伝」の文字があり、蝋燭が遣唐使によってもたらされた事がわかリます。中国の蝋燭史から考えてもこの蝋燭は「蜜蝋」だったと想像できます。

遣唐使廃止の影響で、日本に入ってくる蝋燭は減っていったと思われます。また、この時期に松脂や魚脂を使った蝋燭作りも試みられた記録が残っていますが、質が悪く産業として発展することはなかったようです。12世紀になり日宋貿易のが再開され、蝋燭は再び中国から入って来るようになります。しかしまだまだ量は限られており、1500年頃の「饅頭屋本舗用集」では、蝋燭は「財宝」の欄に記載されており、まだまだ庶民の使えるような道具では無かったようです。

余談ですがこの頃の入ってきた蝋燭は時期的に、イボタロウウシを使った「蟲蝋」だったのではないではないかと思われます。

■日本と共に歩んできた植物「漆」

室町時代に入り、いよいよ漆蝋が登場しますが、その前に少し「漆」のお話をしておきます。日本と漆の縁は古く、稲作と同じような時期まで遡ることができます。函館の垣ノ島遺跡では世界最古となる約9000年前の漆を使った副葬品が出土しており、縄文〜古墳時代にかけては土器や農工具と言った生活用品を中心に漆は使われています。奈良時代に入ると「玉虫厨子」のような仏具にも応用されるようになり、宮中での活用も広がっていきます。蒔絵や螺鈿の技術もこの頃から始まったと言われています。

生産においても757年「養老律令」にて適地での栽培が推奨されており、例えば漆の日本最大の生産地である岩手県浄法寺のある二戸市天台寺では、この時期から既に漆器が使われていた記録が残っています。このように漆は日本誕生から現在に至るまで、共に歴史を歩んできた植物でもあります。

■漆蝋の歴史

漆蝋の記録は、比較的新しく宝徳年間(1449〜1451年)当時の会津藩主である芦名盛信から生産を奨励され、献上品として用いられていたという記録が始まりとされています。一方で、「本朝世事談奇」には文禄年間(1593〜1596年)まで『日本に蝋燭なし』との記述もあり、和泉の納屋助左衛門が文禄3年に呂宋から持ち帰った蝋燭を豊臣秀吉に献上し、技法を伝えたのが始まりという記載もあります。

しかし、「甲陽軍鑑」には1567年松姫と奇妙丸(織田信忠)婚姻の祝品として、武田家から織田家へ越後有明の蝋燭二千挺を送った記録が残っていたり、1581年には当時の会津領主芦名盛隆が織田信長に蝋燭を送った記録も残っています。そのため、納屋助左衛門が伝えたのは、蝋燭そのもではなく「製蝋の技法」だったのでは無いかと思われます。

「漆蝋」の歴史に関して、比較的記録がはっきりしている会津、庄内、盛岡三藩を中心にまとめてみました。三藩とも江戸時代には専門の取締り役を設け、漆の実を全数藩で買い取れる仕組みを作っています。その中でも会津の取締りは非常に厳しく、当時の農民に大きな負担を与えたようです。

19世紀になると安価で質の良い櫨蝋が市場を席捲するようになると工作を放棄する者も多く出たと推察され、その結果が「東遊雑記」の記録として「思ったほど漆の木が無い」と言う記載につながり、取締りの厳しさと併せて「櫨蝋」の影響の拡大を物語っている記録ともいえます。

これはあくまで私見になりますが、この櫨蝋の普及に合わせて、漆蝋側で産業転換が起こったのでは?と考えたりしています。東北と言えば「絵蝋燭」が今でも工芸品として人気がありますが、作り始めは、庄内藩で遅くとも1760年前後、会津では献上品やお土産として登場するのは1800年代に入ってからでした。「質と量」共に優れていたとされる櫨蝋の影響をうけ、灯りとは別の用途が発展したのではないでしょうか?(もちろん芸術を楽しんだり、お土産を買う豊かさが生まれてきたことも要因だと思われます)。

さて、そんな「漆蝋」ですが、大正時代の産業変化の影響で産業として大きく衰退していきます。そして1962年、漆蝋始まりの地会津で国内の漆蝋作りが一旦幕を閉じることになります。(※継続調査中です)

■「漆の実」で長く蝋燭が作られなかった謎

さてここまで漆蝋の歴史を振り返ってきましたが、ここで1つ大きな疑問が生じます。『奈良時代から栽培していた漆の「実」でなぜもっと早く蝋燭を作らなかったのか??』

明治に入るまでは漆の木は「養生掻き」といわれる実を育てながら樹液を採取する方法が主流でしたので「漆の実」は残ります。894年に遣唐使が廃止され、国内での蝋燭生産の動きは起こりましたがこの時漆の実を使うという選択肢はなかったのでしょうか?漆での製蝋記録は、1449年頃になる為、実に500年以上蝋燭の原料として「漆の実」に注目が集まらなかったことになります。ここは改めて深堀してみようと思います。

■新しい「うるしろうそく」

「漆蝋」の歴史には続きがあります。

現在漆蝋は、石川県七尾市の高澤ろうそく店さんで「うるしろうそく」として復活しています。2011年に始まった「輪島漆再生プロジェクト」の中で作られた漆の実を使って作られた漆蝋です。この取り組みが、材料から製造・販売を行う里山作りのイメージをより具体化するきっかけとなりました。

まずは、皆さんもこの「漆の灯」を体験してみませんか?さて、次回はいよいよ「櫨蝋」です。

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