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名古屋&daft STREETDANCE HISTORY1 〜2003年:天邪鬼と名古屋〜


どうもです。UCです。

(これは名古屋&daft STREETDANCE HISTORY企画の目次1です。その他の目次はこちらからご確認ください。→名古屋&daft STREETDANCE HISTORY

 また、名古屋STREETDANCE HISTORYの続編でもあります。1990年〜2002年のヒストリー記事はこちらからご確認ください。→名古屋STREETDANCE HISTORY )
(2020.07.20 追記あり)

さて、
今回から2003年以降について記していきますが、
ここからは私自身に起こったことを中心に記していきたいと思います。

ですから、
今まで以上に「実際にあったけど取り上げていないもの。」が数多くあるかと思います。
これが名古屋ダンスシーンのすべてだと思わずに読んでいただければと思います。

ということで、
2003年を振り返る前に、
少し話を遡らせまして、自分がダンスに出会った経緯と走り出しのことを記していきたいと思います。
(※文中はすべて継承略です。ご了承ください。)


2002年、ダンスとの出逢い


02年編の最後に、
自分がダンスサークル『N.U.SOUL』(現、『N.U.STYLE』)キッカケにダンスを始めたと書きました。

大学構内でたまたまサークル勧誘で声をかけられ、
元々HIPHOPに興味があったので、活動場所までついていき、
気がついたらそのままレッスンに参加していました。

その時、最初に教えてくれたのは、
あっちゃん“(『STRUT SUSPENSIONS』)
でした。
僕の横で一緒にダンスを始めたのは、
TARO“(のちに”タローラ“)でした。

その後、
N.U.SOUL』の先輩に、南山大学のダンスサークル『N-crew』も紹介してもらい、
そちらにも顔を出すようになりました。
(名古屋大学と南山大学は徒歩圏内で近いのです。)

そして、
高校のサッカー部時代からのツレである “TAKUYA”と、
大学で“TAKUYA”と仲良くなった“”と、
TARO”と4人で、
名古屋大学の学園祭(6月)に出演します。
チーム名は『天狗』でした笑
ただ、これは1回こっきりで終わり、
”は二度と踊ることはありませんでした(^^;


それから、
サークル『N.U.SOUL』の先輩から
「上手くなりたいなら、サークル外のレッスンに行った方がいいよ。
例えば、『pineapple studio』とか有名だよ。」
と言われたので、
pineapple studio』に“TARO”と行き、
そこで“初級”と書いてあったという理由で、
SUGI“(『PUNCH』, 『NIGHT RYDERS』/現、鉄板料理『らくだ』店長)のレッスンを受け、
その人柄に惹かれて数ヶ月ほど通いました。

僕にとって複数回でレッスンを受けたのは、
この“SUGI”レッスンが唯一の経験となりました。しかし、
SUGI”が当時就職を志し、横浜へと拠点を移してしまい、
すぐにレッスンを受けられなくなってしまいました。

ちなみに、
SUGI”はその後、東京でお好み焼き屋の修行に行き着き、
数年後には『TVチャンピオン』の“お好み焼き職人選手権”で優勝し、
見事、“日本一のお好み焼き職人“となり、
現在は安城市、刈谷市に鉄板料理『らくだ』を出店しております!!

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▲SUGI お好み焼き職人選手権優勝時(2007年)
(TV champion バックナンバーより引用)


その一方で、
サークルで1番お世話になった先輩は02年編で紹介した『Ugly』でした。
メンバーの“MASA”が同じサークルだったので色々紹介してもらいました。

前述の名大祭が終わってふらふらしてた頃に、
MASA”(『Ugly』)から、
「お前らと同じ歳で1人で練習している奴がいるから、良かったら一緒に練習してあげてよ。」
と言われ、
当時の『Ugly』の練習場所『春日井市役所』に行きました。

そこで紹介されたのが、
masahiro”(のちに『daft』)でした。
これが2002年9月とかでしたね。

なんでも、
masahiro”は、和歌山から進学で愛知へやってきた際にダンスを始めようと思い、
ダンサーを探して単車を転がしつつ『春日井市役所』に辿り着き、
その日練習しているダンサーを全員くまなくチェックしたうえで、
Ugly』が1番かっこいいと思い、すぐさま、
「僕にダンスを教えてください。」
と声をかけたそうです。

ということで、
masahiro”もダンスを始めたわけですが、
Ugly』メンバーも、
「(ダンス教えても)いいよ。」
と言いいつつも、自分たちの練習があるので、
いちいち”masahiro”にダンスを教えていられない。
ということで、同い年、かつ同じくらいのダンス歴の僕らを繋げてくれたのでした。


ここから、
masahiro”, “TAKUYA”, “TARO”, “UC”、
初心者4人での『春日井市役所』練習の日々が始まりました。
SUGI“レッスンで覚えたことや、ビデオで見たことを持ち寄ったり、
隣で練習してる『Ugly』をカッコイイなーなんて言いつつ、
あーでもないこーでもないと当てもなく、
夜な夜な恐ろしいほどに非効率な練習をしていました。

当時、
春日井市役所』で練習していたチームで仲が良かったのが、
・『Ugly』(“YASUHIKO”, ”HIROAKI“(現、”WOWZ”), ”MASA“)、
・『Double Trouble』(”TOMO“(現、『CAKRA DANCE COMPANY』), ”KANI“)
・『Change Your Mind』(”MEGU“, ”あゆみ“)
でした。
練習仲間というより、早く肩を並べたい先輩たちでした。

そんなある日、
「せっかく練習してるなら、イベントとか出てみたら?」
ということで、先輩がイベントの話を持ってきてくれました。

それをきっかけに、
4人でのチーム活動が始まりました。
チーム名を『春日井市役所』練習メンバーの方からつけていただき、
tadpole』(タッドポール)
になりました。
意味は、“おたまじゃくし”です笑


そして、
2002年12月、
club WALL』での『SPIN』というイベントが、
僕らのクラブイベントデビューでした!
衣装は、『TOMMY FILFIGER』、
選曲は、『Naughty by Nature』,『AV8のmix CDから選んだやつ』とかでした☺︎
(2ネタ目かも?記憶曖昧です。)


前置きからさっそく長くなりましたが笑、
こんな感じが2002年の自分でした。


早くも天邪鬼の始まり


というわけでようやく2003年です。

2002年12月にイベントデビューした僕らは、
そこから2003年3月までに数回イベント出演しました。
当時は、
名古屋でも平日からSHOWやLIVEのあるイベントが多く、
さらにDANCEとLIVEが一緒のイベントも多かったですね。

なので、
大きなダンスイベントがある日も、そんなイベントがあるとも知らず、
ラッパー主催の違うイベントに出ていたりしました。
WALL』, 『CLUB EDITS』, 『BUDDHA』, 『ZABOON』といった小箱で踊ることが多かったですね。

そして、
自分たちのチームを始動させ始める頃から、
masahiro”が、
「レッスンを受けていても、そのインストラクターに近づくだけで超えることはできない。
 誰の色にも染まらない自分たちの踊りを確立したい。」
と言い始めました。
僕もそれに賛同し、僕らはさらに『春日井市役所』に籠るようになりました。


今思えば、
まったくの見当違いというか、
「基礎すら出来ていないのに、何を飛躍してるんだ⁈」と、
「“守破離“の“守”もなく何を言っているんだ?」と、
当時の自分たちをぶん殴って目を覚まさせてやりたいです笑

毎日のように夜な夜な集まっては朝まで練習していましたが、
今思えば、基礎・基本を知らずにただ動いていただけですからね…。

なんてことをボヤいても、
もう後戻り出来ないわけですから、
気付いた今ここから始めるしかないですね。


そんな、
捻くれたチーム『tadpole』と初期から仲良くしてくれていたのが、
00年編から紹介している『海無組』(“MARIKO“(現、“MARGALIC“/『CAKRA DANCE COMPANY』), “SAORI“, “YUKA“(現、『arya free』代表), “YORIKO“, “MAYA“)と、
mono96』(“AKARI”(現、フェルデンクライス『ろじのあかり』代表), ”ITSUKA“)
などの同世代チームでした。

出会いはサークルがきっかけでしたが、
どちらのチームも高校からダンスをしていたので、最初はかなりコンプレックスありましたね笑

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▲海無組(上: 左から、MAYA, YORIKO, SAORI, 下: 左から、MARIKO, YUKA)


しかし、
3月末に新展開を迎えます。
…『tadpole』解散です。
活動期間、わずか4ヶ月弱でした。


daft結成


tadpole』解散から、1ヶ月後。
僕は新チームを結成しました。

それが、
2020年現在も続けている『daft』です。
メンバーは、
UC”, “masahiro”, “TAKUYA
の3人でした!

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▲daft(上: TAKUYA, 下: UC, 右: masahiro)


全員『tadpole』メンバーではありますが、
TARO”がいないなら、もう違うチームだから。
ということで改名しました。


ちなみに、
なぜこのチーム名になったのかと言うと、
ある日、いつものように『春日井市役所』で練習していたら、
HIROAKI”(現、“WOWZ“/『Ugly』)がCDを忘れていったのに気付き、
そのCDを預かりがてら、聴いてみたところ、
ものすごい衝撃を受けました!

そのCDが、『Art of Noise』の『daft』というアルバムでした。

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▲Art of Noise『daft』(1985年リリース)

その日は一晩中そのCDで練習して、
翌日、ソッコーで『BANANA RECORD』に買いに走りに行きましたね!

そのまま、
このアルバムの曲名とかからチーム名決めちゃおうよ!
とか盛り上がって、
色々探ったり、考えてみて、最終的に語感と意味(=狂おしい)が気に入って、
アルバムタイトルの『daft』に決定しました。

僕らのデビューは、
2003年6月の『名大祭』でした。

そのまま、
tadpole』時代に踊らせていただいたイベントにも出演するようになり、
club JB’s』で“DJ KANE”(のちに『EMOTIONAL SOUNDS』主催)が主催していた『ROUNDHOUSE』にもレギュラーで出演する様になりました。


02年編で記したように、
先輩チーム『Ugly』が、『GATE』の初代GRANDCHAMPIONとなり、
この年には、
大阪の『TRUE SKOOL』で優勝したりと、
(※この頃には”YASUHIKO“と”MASA“の2人で活動)
どんどん大きな大会で活躍し出していたことは僕らのめちゃくちゃ大きな刺激になっていました。

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▲Ugly(左から、YASUHIKO, MASA)

しかし、
この年は、『daft』はコンテストにチャレンジすることなく、
ひたすら実力を上げようと練習していましたね。

多分、
自信がなかったんでしょうね笑
突っ張ってる割に。笑


DANCE DYNAMITE 2003


さて、
この年の名古屋ダンスシーンについても、
大きなイベントを中心に少し振り返っておきます。

まずは、
91年編から紹介し続けている東海地区最古にして最大級のダンスイベント『DANCE DYNAMITE』です。

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▲DANCE DYNAMITE 2003 予選フライヤー

予選は恒例の『CLUB QUATRO』で開催されましたが、
この年が『CLUB QUATRO』で行うのは最後の年となりました。

GUESTには、
91年編より登場し、95年編でその爆発ぶりを伝え、96年より上京していた “PINO”(『PINOCCHIO』)が、
東京でのユニットチーム『ZENITH』で登場します!
フルメンバーとはいかなかったものの、
日本HIPHOPシーンのレジェンド『BUTTER』の ”O-SHIMA“と”SHINICHI“を率いての登場しました!
これは豪華ですね◎

ダンスを始めていたのに観にも行っていない自分を情けなく思いますね(>_<)


そして、
予選を通過し、本選に進出したのは、
1.『琵琶湖周辺ムーバーズ
※チーム名通り滋賀のbboy集団だと思われます。

2.『M.J.5
00年編から紹介している『SUMMER PEACH』(”なっちゃん”, ”ももちゃん”)、“ケント”(現、“千賀健永”/『Kis-My-Ft2』)、”RYO”(現、”ryoffy”/『ふぁっきんぼうやたち』)、”TAKAYA”の5人からなる『FORCE DANCE STUDIO』プロデュースの小学生チーム!
プロローグ編から紹介している“KITOH“の代名詞である“MJスタイル”を伝承したチームですね。
ちなみに、『FORCE DANCE STUDIO』でマイケルにハマった“ケント“がそのままジャニーズに入り、今では『Kis-My-Ft2』ですから、人生何があるか分かりませんね(^^)
(千賀健永”のWikipediaにもこのエピソード載っています。)

3.『回転猿軍団
※『名城大学ダンスサークル』のbboy集団であり、
00年編で紹介した“SATOSHI”(『FULL STOIC MOVERS』/現、『D-HIGH DANCE STUDIO』代表)の弟子であった”RYU“, ”MASAKI“などが所属していました。

4.『G-BOYA
※師匠に“KOU”(『CAKRA DANCE COMPANY』主宰/現、『STUDIO CAVE』代表)を持つ当時10代の若手HIPHOPチーム。
メンバーは、“SHOTA”, “DAICHI”, “MORO”, “HIROKI”の4人組。
全員、名古屋市港区出身の幼馴染みによるチームでした。

5.『はなむぐり
※“KOYUKI”, “RIEKO”, “MAKIKO”の3人組。
パワフルなHIPHOPが持ち味であり、このチームも“KOU Family”チームでした。

6.『幻・遊闇
01年編で紹介した名古屋”ストリートJAZZ“のハシリである『遊闇』が、”Nishi-P“の上京により解散していましたが、
この『DANCE DYNAMITE』の為に”Nishi-P“が東京から参戦します!
そのため『』の文字がついていますね。
メンバーは
Nishi-P“, ”MAYUMI“(のちに『龍五娘』), ”RENKA“(のちに『U Go Girl!』), ”MOMOCO”(のちに『Ne-Ne'S』)の4人でした。

7.『no-clutch
94年編で紹介した『よそほひ』、02年編で紹介した『COHIBA』のメンバーであった ”IKEPONG“, ”SEIJI“, ”SATOSHI“の3人組!

8.『DE LA TOP
99年編から紹介し続けている”SHOJIN“の新チーム!この時のメンバーは、”SHOJIN“, ”TAKUMI“(現、『enjoynt dance school』代表), ”YASUTO”, “TATSUYA“の4人でした。
(ちなみに、決勝は師匠の”SHOJIN“抜きで出場!)

9.『7’s FACE
00年編で紹介した全国レベルのロッカー『ゲロッパ』を中心としたユニットチーム!
YAZAKI”, “HIKARU”(ともに『ゲロッパ』)に、
山梨在学時代に『ゲロッパ』メンバーだった豊橋の”KODAMA”,
同じく元『ゲロッパ』の一宮の“こまり”と、彼の相方“てっちゃん”,
そして、01年編から紹介している『enokeen』(”AKO“, ”YAMA“)も加わった遠距離ユニットチーム!
予選は“1位通過”でした!!

以上の9チームでした!(順不同)

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▲DANCE DYNAMITE 2003 決勝フライヤー


そして、
決勝で見事優勝に輝いたのは、
no-clutch
でした!

2002年の『DANCE DYNAMITE』では、『COHIBA』で出場し、準優勝を獲得していたメンバーが、
翌年の2003年では見事に優勝しました!

この決勝大会は、
僕が初めて観に行った『DANCE DYNAMITE』でした。
DIAMOND HALL』で踊るダンサーたちは輝いて見えましたね!

YAZAKI“なんて『RAVE 2001』(98年編参照)や、『JAPAN DANCE DELIGHT vol.8』のVIDEOで観ていたいわゆる”VIDEOの中の人“だったので、
名古屋で生で観れるなんてびっくり!
という感想で観ていましたね。
そして、一緒に踊っている『enokeen』てすごいダンサーなんだなぁ。て思ったのも印象に残っていますね。

ちなみに、
素人目で見た自分は、『幻・遊闇』が優勝したかなーとか予想していた記憶があります笑
かっこよかった記憶がしっかり残ってます!


SUPER BAD 2003

そして、
01年編より紹介している
SUPER BAD』もこの年もさらにパワーアップで開催されました!
会場は3年連続の『CLUB OZON』でした。

目玉ゲストは、
映画『BREAKIN’』の”Turbo“役を演じた、
超レジェンドダンサー”BOOGALOO SHRIMP“でした!
実に6年ぶりとなる来日が決まり、名古屋はざわついていました。

▲BOOGALOO SHRIMP(あまりにも有名なこのシーン!!)

しかし、
実際は直前に来日キャンセルとなってしまい、
SUPER BAD』としては大きな痛手を負ってしまいました。

それでも、
全国各地からレジェンドダンサーが集結しており、
BOOGALOO SHRIMP“キャンセルを感じさせない濃厚な空間となったとのことでした。

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▲SUPER BAD 2003 ゲストダンサー

本当に豪華なメンツですね!!
チーム名だけで破壊力バツグンです!

地元勢は、
pineapple studio』でインストラクターを務めるダンサーが各々の組み合わせで登場しました。

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▲pineapple dancers 2003


2002年の25人から、2003年は30人に増えています!
・“B-YASU”(『NEXT SCHOOL』/現、『CONCRETE SOUL ROCKERS』)
・“ATSUSHI”(『無限ロッカーズ』/現、『ALL GOOD FUNK』, 『3KICK SPILITS』)
・“MATSU”(『NEXT SCHOOL』/現、『SOUL CITY TOKAI』主宰)
・”KENTA”(『N.O』/現、『PINOCCHIO』)
といった当時22〜23歳の若手ダンサーがこの1年でインストラクター側に増えてますね!
全員、その後全国に名を轟かすメンバーです◎

そして、
DJ陣もお馴染みのメンツに加え、
元『ZOO』の”CAP“まで登場しました!

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▲SUPER BAD 2003 DJ cast


さらに、
LIVEは当時名古屋の夜を賑わしまくっていたCREWが3つ登場しました!

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▲SUPER BAD 2003 CREW showcase

これは盛り上がりますね!!

もちろん、
GRAFFITI ARTISTは、
DA KOOLAID“(現、”CAZUL“)でした!

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▲フライヤーには仲間たちのGRAFFITIも掲載!


やっぱり、
SUPER BAD』は名古屋のトップofトップと、
名古屋にいながらに、日本のトップを味わえる希少なイベントでした!


ROCK ITの開始

そして、
2003年に始まった名古屋ダンス史に残るイベントがあります。
それが『ROCK IT』です。

第一回目となる『ROCK IT』がこの年、
伏見の『club SOURCE』で開催されました!

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▲ROCK IT フライヤー

このイベントの目玉企画は、
01年編02年編で紹介したドラマーの ”KASHI“が率いるBANDの生演奏によるダンスバトルでした!

当初は、
WHO WANNA BATTLE“と言って、
MCであった ”番長 aka WIREMAN“(『TOTALIZE』)の呼び掛けの中、
バトルしたいダンサーが出てきて、その場でバトルをするというシステムでした。

そのうち、
会場内に”挑戦箱“というものが設置されるようになりました。
そこに”バトルしたいダンサー“を書いて提出しておくと、
イベント側がそのダンサーにアポをとってくれ、次回対戦の機会を作ってくれるというものでした!
ちなみに、
挑戦された側は、受ける受けないの選択は出来るものの、誰が挑戦してきたかは知らされず、
当日会場に行ってバトルする瞬間に知らされるという試みでした。

めっちゃ面白いですね!!

どちらも、
バトル音源は”生音“でした。
当時からすると、相当新しい試みだったと思います!
おそらく、全国的に見ても立ち踊りやフリースタイルのバトルイベントすらあまり存在しなかった時代だったのですから。

翌年?には、
開催場所を『club JB’s』へと移し、
バトル方式は毎月エントリー制のトーナメントバトルへと徐々に変更していきました。

そして、
バトルJUDGEは毎回『Warriors』と称された名古屋を代表するダンサーが行っていました。
初代『Warriors』メンバーが、
プロローグ編より紹介している ”OZEHAN“(『WILD STYLE』, 『3DOPE HYPE』),
91年編より紹介している ”KENJI“(『PINOCCHIO』),
94年編より紹介している
HAYATO“(『DOPE FRESH』/現、『PUPPETION』代表),
98年編より紹介している
BUNPEI“(『ROOT’S ON』, 『名古屋城前ポッパーズ』),
01年編より紹介している
B-YASU“(『NEXT SCHOOL』)

の5人でした!

自分たち『daft』も、この『ROCK IT』にはかなり鍛えられました!
また年を追って紹介します。


KING of the STAGE


もうひとつだけ、
この年に開催されたBIG EVENTをもう一つだけ紹介します。

それが、
KITOH“(『FORCE DANCE STUDIO 』代表)が仕掛けた
KING of the STAGE』でした!

「近代化されたストリートダンスシーンをリアルにステージ化し、
 多くの人たちに私たちのダンスシーンを伝えたい。」

との想いで、ストリートに特化したリアルなメンバーを集めた特大ステージをぶち上げました!

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▲KING of the STAGE GUEST CAST

上から、
オーガナイザーの”KITOH“(『FORCE DANCE STUDIO』代表)

そして、
プロローグ編90年編の黎明期から紹介し続けている“名古屋NEW SCHOOLシーン”の“第一世代”である、
・”倉田サム“(『P.D UNITS』, 『ダンス★ダイナマイト』代表)
・”TAKE“(『P.D UNITS』, 当時『pineapple studio』代表)
・”KOU”(『MIAMI FACE』, 『P.D UNITS』, 『CAKRA DANCE COMPANY』主宰)
・『Mel-O』(“KING-BOO“, ”SAKI“)※99年編参照
・”SENBA“(『MOVE UP』, 『FOOT ILLUSION』)

もう、勢揃いです!
名古屋代表の中の代表ですね!!

そして、
同じくプロローグ編から登場している
AKIRA“(現、”AKIRA SOUL“),
KATSU”(『Beeper』, 『DEGIL FIRE』/『Toss It Up』オーガナイザー)
さらに、
94年編より紹介しているダンサー出身DJ“DJ TETSU”,
91年編より紹介している ”KENJI“(『PINOCCHIO』),
01年編より紹介しており、この年も3rd Singleをリリースしていた『HB』(”HOZE“, ”Ryu-B“)
と豪華なメンツが並びました!

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▲HB :3rd single“RIN.NE”(左から、Ryu-B, HOZE)

さらに、
FORCE DANCE STUDIO』インストラクターを中心に、
名古屋第二世代、第三世代のスターたちも、
BLACK LIST”としてキャスティングされました!

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▲KING of the STAGE フライヤー裏面

すごいメンツですね。
懐かしい顔、今も前線で活躍する顔が沢山です!
これまで紹介してきた人が9割です!
紹介してない人でいくと、
RENA”(のちに『Tiger Lily』, 『GLITTER』など)がいますね。

是非色々探してみてください(^^)


ちなみに、
この中で“マイケル・ジャクソン”の写真をあてがわれている“NOBORU”とは、
もちろん”KITOH“のことであり、
何度も言うように”MJスタイル“こそが、
KITOH“の代名詞でした。

ちなみに、
KITOH“は、この年に東京の人気イベント『DAB DAB』で、
NUMERO UNO』(”MAI“, “JuNGLE“), ”PINO“(『PINOCCHIO』), “SHINICHI“(『BUTTER』)
という国内トップのレジェンドダンサーたちと一緒に”MJスタイル“で”GUEST SHOW“をしたこともありました!

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▲DAB DABフライヤー

かましてますね!!


JDDと名古屋


さて、
94年編から紹介してきた国内最大級のストリートダンスコンテスト『JAPAN DANCE DELIGHT(JDD)』(『ADHIP』主催)ですが、
規模はどんどんと拡大していき、
JDD final』でのチャンピオンをキッカケに、
・『PaniCrew』(優勝時、『3D CONNECTION & NEW POWER G』)
・『KAMUI』(優勝時、『錯乱武者』)
・『電撃チョモランマ隊
など芸能デビューするクルーも出てくるなど、
規模はどんどん大きくなっていました。

しかし、
その一方で2002年から2004年の3年間、
東海のダンスチームから“FINALIST”が登場しなくなります。
(東海を拠点にしたチームという意味です。)


※上京していた“PINO”は、
この年の『JDD vol.10』において、
PINOCCHIO+GLASS HOPPER
として”準優勝“を果たしました!

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▲PINOCCHIO+GLASS HOPPER

とはいえ、
これまでの『JDD final』でも何度も印象を残してきた東海在住、東海拠点のチームはこの時期は現れなかったのでした。

これは中部予選大会が開催されなかったことも大きく影響していると思いますが、
個人の勝手な推測では、
ダンスイベントの増加などで踊る機会が誰にでも増えたため、
若手世代がチームを組んでもコンテストに出ない、
わざわざ県外までチャレンジしにいかない
などの流れが出てきた頃だということも関係しているのかもしれません。
(昔はまずはチームを組んで、コンテストでカマさないことには踊る場を確保できなかったと聞いています。)

さらに、
一方でコンテストの結果と、地元ダンスシーンでの評価が連動しにくくなった時期なのかなとも思います。

もちろん、
コンテストで結果を出すことが全てではないですし、
結果を残さずとも、表現出来る場はあるわけで、そこでかませばいいわけですし、
すべてはどちらが良いとか悪いとかではないです。
(※色んな価値観が生まれてきたということを伝えたいわけで、
自分としてはスタイル/スタンス云々ではなく、今の自分をどれだけ深く貫けるかだと思っています。)


もちろん、
そんな中でも積極的にチャレンジしていた人もいますし、
全国レベルで結果を残している人たちもいました。


例えば、
99年編より紹介している “MORIATSU”(現、”MORIARCH”/『BIOBLOOD』)は、
名古屋を代表するLOCKチームに成長した『無限ロッカーズ』を、この年に解散しており、
MORIATSU”は、“KATOKEN”と、
レオン』として再出発していました。

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▲無限ロッカーズ(左から、KATOKEN, MORIATSU, ATSUSHI, RYO)

そして、
レオン』として、
OLD SCHOOL NIGHT(OSN) 2003』のLOCKサイドで”Top8“入りを果たしております!

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▲OSN 2003 LOCK report

ご覧の通り、
この年の『OSN』LOCKは、
優勝『GO GO BROTHERS』, 準優勝『HILTY&BOSCH』, TOP4:『花井伸二』, 『BITTER BOX SISTERS』でした。
こんなガチで世界レベルの大会でTOP8はヤバすぎますね!

また、
01年編で紹介した『TEAM』の“NOBUTO”は、
ロンドンでの『ソロバトルコンテスト』において何度も優勝するなど、
海外で強さを発揮していました!
まだヨーロッパHIPHOPが隆盛を迎える前に、
名古屋のダンサーがカマしていたことは誇らしいですね◎


さて、
さっそく長くなってしまいました。

最初に強調したように、これが“2003年の名古屋ヒストリー”というより、
僕が見てきたシーンと、興味を持っていた活動という感じで受け止めていただければと思います。

今後も自分が見てきた景色を中心に記していこうと思います。


まとめ

2003年は自分の生涯のチームとなるdaftを結成した年であり、名古屋シーンは盛り上がりつつも、ある意味では県外のシーンとの断絶が感じられる盛り上がりになっていた時期だった。


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