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自己紹介(2023年10月更新)

初めまして
UCcreativeの田村 哲(タムラテツ)
またはドンファンといいます。

新潟県新潟市でフリーランスの動画クリエイターをしてます。
YouTubeに上げるようなWeb動画、企業のPR動画などを制作しています。
幅広い動画に携わりたいと思っていますので、制作事例に載っていないものでもまずはご相談ください。









かっこつける俺

2023年2月で開業から3年経ちました!



略歴

・1993年4月21日に東京と板橋区にて長男として生まれる
・小学生時代は自転車でどこにでも行く冒険好きのガキ
・中学で東京都稲城市に移住、バスケにハマる
・高校はバスケを本気で頑張るが何故か応援団長に、卒業後新潟市の専門学校に入学ブレイクダンスを始める
・専門学校卒業後新潟で就職
・25才の時にアメリカ大陸を手持ち金100ドルで横断、この時初めて動画を作りのめりこむ
・2020年2月に動画制作業者として開業。
・一人で企画構成→撮影→編集→納品まで行うスタイルで現在まで活動中。


■なぜ動画なのか
経緯としては25歳の時にやったアメリカ大陸横断の時です。
この挑戦は手持ち金100ドル、クレジットカード使用禁止の縛りをかけて2ヶ月間でLA→NYまでを横断するという今考えてもクレイジーな企画でした。

この挑戦はダンス仲間3人で実行しました。色々とイベントが起こると予想しその様子を撮影編集しリアルタイムでYOUTUBEにアップロードするという魂胆でした。
この時が動画を制作する初めての経験でした。
最初にどんな機材を買ったらいいのか良くわからなかったですが、とりあえず、長く撮影できるビデオカメラを購入。2万円くらいだったと記憶しています。
そして頭を悩ませたのが編集です。
編集には基本的にノートPCを使います。現在編集に使っているPCもノートPCです。しかしこの時は絶望的に金がありませんでした。
悩んだ末にとった作戦は

タブレットでやればいいじゃん

でした。
そしてビックカメラに行き店員に訪ねます。
「動画編集ができるタブレットってありますか?』
店員は困ったような、少し馬鹿にしたような顔をしていたのを覚えています。
それでも色々と調べてもらい、できる限りスペックの高いタブレットを購入。
このタブレットを使っての編集は大変でした。今やれといわれたらできないと思います。でも当時は自分達が映った動画を編集するのは面白かったです。かなり夢中になってやっていました。
必死に編集した動画の本数は63本。純粋に嬉しかったですね。
しかしその中でも一番再生されているのは100回くらい。それだけ見てくれるのは嬉しかったですがやはりもっと回ると内心で思っていただけあってショックでした。
この時の経験が私の動画に対する思いを熱くさせました。

絶対にいい動画を作る

日本に帰ってきてまずは速攻で就職しました。そしてお金を貯めてノートPCを買いました。お金が貯まるまではYouTubeに上がっている動画のチュートリアルを見たりしていい動画とは何か研究していました。
ノートPC を購入してからは仕事が終わったあとずっと編集。

その後自分の中で編集のスキルがついたと思った頃、コロナウイルス発生。
外出自粛の雰囲気が出ている中、これはもしかしたら動画の需要が増えるのではないかと見込み独立。なんとか今まで生きています。


趣味

・ブレイクダンス
かれこれ12年くらいやってますが上手ではないです。ただ音楽に乗って踊るのが好きです。

・旅
旅が僕の永遠のテーマです。
お金とかより旅をしながら仕事をしたいです。半年その場所で生活してまた移動が理想。とりあえずタイ住みたい。
海外遍歴は偏っていますがアメリカ5回フィリピン1回ですね。

・飲み会
ずっと意識してなかったですが僕は人と飲みに行くのが好きです。全く知らない人と話すのも結構好きです。以外と知らない人の方がよく話せたりする事ありますよねぇ。

・筋トレ
筋トレ歴は10年くらいです。かつて自分の限界を突破したいという思いからメンズフィジークと言う細マッチョを競う大会に参加しました。食事は鳥のささ身とプロテインを摂取。過酷な減量と週5日のトレーニングに励みました。新たな世界を切り開けた気がします。結果ですか。予選落ちです。
2025年7月までに体重65kg体脂肪率10%の肉体を目指しています

・プログラミング
2022年頃からやり始めてます。結構おもろいです。しかし難しい。

以下私の人となりを記述します。


ここからものすごく長文注意!!
NETFLIXに飽きた暇な人は見てください!!



私の人生


生まれは東京都板橋区で生まれました。

その時の記憶はほぼ無く生まれてからはすぐに茨城県牛久に移住。


当時は虫や恐竜等の生き物が好きでよく外に出かけては草むらに落ちてアブラムシだらけになって帰ってきたり、川に落ちたりしました。
父親はそんな私を見守っていましたが過保護にならずにまずは経験が大事だと言って川岸に私が近づいても手を出さずに川に落ちてから助けるタイプの親でした。今もまずはやってみないと何もわからないという精神が私の中には根強くありますがこの時の父親のポリシーが残っているのだと思います。

子供の頃特に興味関心が強かったのはカブトムシやクワガタなどの甲虫でした。採集してきたクワガタを毎日寝る時間になるまで眺めていました。当時の状況を母親に聞くと、何事も一度熱中するとずっとそのことばかりになる子であり、足で漕ぐ車の遊具

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コレ


にハマっていた時は家に帰るといっても聞かず、抱っこして持って帰ろうとしたものの車を離さなかったので車ごと引きずって家に帰ったと言っています。


小学校になるかならないかのタイミングで父と母は離婚し母と2歳下の妹と共に
母親の実家のある世田谷に引っ越しました。

ここで出会った私の1歳年上の友人が今の私の性格に大きく影響したと感じています。その友人は冒険好き、知識豊富のアイデアマン。私は彼の家に狂ったように毎日遊んでいました。
自転車であらゆる場所を冒険し、川に笹船を流すのにハマったり、化石探しにハマったり、あらゆる事にハマっては飽きてまたハマりを繰り返していました。

当時は野原しんのすけの自分を貫きマイペースなところに強い憧れのようなものを抱いており、ルックスや、足もそんなに速くないということに自分でも気づいていたため。早々とクラスでは捨ててお笑いキャラに走りました。

今思えばこの選択は正解だったと感じております。クラスの爆笑をかっさらう為にはそれなりのリスクをとらなければいけないと学び、実際に絶対にウケると思い放った渾身のギャグが取り返しのつかないほどのクラスの沈黙を生み出した時のプレッシャーは何事にも変えられないいい経験だったと思います。


そして女子からのバレンタインデーのチョコレートを小学校生活で一個も取得することができずに私は中学校へ進出します。


~~~中学校時代~~~

中学生になるタイミングで稲城市という東京の中でも辺鄙な地に引っ越すことになりました。

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稲城市の位置。東京の真ん中の癖に田んぼがある


もちろん小学校の時に一緒だった同級生は一人もいません。
記憶は定かではありませんが入学式が始まる前に
「俺はブラジルから来たんだ宜しく!!」
という明らかに色が黒いだけの日本人の子と話しました。

結果としてこの友人と仲良くなることになりすぐに中学校生活が始まりました。
部活動はテニスの王子様の影響でテニス部にはいると決めていたのですが
気に入らない先輩がテニス部にいたのとブラジルの友人がバスケ部に入ると言っていたので私もバスケ部に入部しました。

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稲城市の風景。東京とは思えないほど自然が豊か


しかし結果としてバスケ部に入ってからそのままに熱中し部活以外の日もバスケをやり続け、2年生になるころには本気でNBAの選手になりたいと思っていました。NBAの選手ハイライト集のDVDを借りたり深夜枠のNBAの試合を録画し休日に見て研究していました。努力すればなんにでもなれると思い込みひたすらに練習し続けました。


ある程度上達はしましたが、中学校の間に私の名前が試合中に呼ばれることはなく、わたしのポジションは基本ベンチでした。
ただこれをきっかけに高校はバスケの強豪校に行きたいと強く思うようになり受験勉強に打ち込むようになります。

学校生活はというと、私も例に漏れずに中二病を発症します。まず人と違うものを好むようになりました。当時はオレンジレンジ等のバンドが名を馳せていた頃ですが、私はアメリカや海外にあこがれ洋楽を聞くようになります。それを宗教のように友達に吹き込みまくった結果、中学3年生の頃私のクラスの男子の中で流行った音楽はBONJOVIの 「It`s My Life」となりました。
今思うと自分で「TAMURA`s BEST MUSIC」とかいうCDを友達に配りまくっていたのは痛々しい思い出です(Vol3まで発行。現在は廃盤)


こうして女子からのバレンタインデーのチョコレートを中学校生活で一個も取得することができずに私は高校へと進出します。


~~~高校時代~~~

辛い受験勉強を乗り越え私は希望通りの高校に進学することに成功します。

都内でバスケ強豪校であった為高校生活は中学校よりも部活の占める割合が多かったのを覚えています。
朝五時に起きて朝練、午前授業からの昼練、午後授業終わりの本練習と練習三昧でついていくのがやっとでした。
そしてここで周りの選手とのレベルの差を見せつけられます。
何とか追いつきたかったので朝練は誰よりも早く来たり、体の動かし方を学ぶため古武術の本を読んでいたりしました。

しかし高校2年くらいからはNBA選手になる夢は薄くなり、気づくと試合の応援団長になっていました。
目立つのが好きだったのとベンチ外通告を受けた20数名と共に周りを盛り上げるのが好きだったのでこのポジションに不満はなく楽しかったです。運命ではないかと思っていました。
3年になりそのまま部活を引退します。

高校の学校生活に関して私は中学校生活の頃から抱き続けていたある野望が爆発します。
その野望とは彼女を作る事でした。
なぜ中学校彼女ができなかったかというと、先述した中二病の症状の中。女子と話すと友達に冷やかしを受けるという風習が蔓延。その影響で女子との会話をすることなくそのまま卒業を迎えたからです。
嘘です、ただ女子と話すのが怖かったからです。

この野望を絶対に成功させたいという思いと、女子との会話の経験値の少なさがマッチして絶妙にダサい男、田村哲が誕生しました。
当時流行っていたSNS「mixi」をフル活用し女子とメールアドレスを交換。恥ずかしくて直接話すことができない為メールでガツガツした結果、見事多くの女性から返信が来なくなりました。今から俯瞰してみるとキモイっす

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mixiは当時爆流行りしていた。校内8割くらいが利用していたのではないかと思う


最終的には高校生活中。彼女ができることはありませんでした。

そして高校3年。大学受験の際に私は大きな決断をします。
明治大学に行く。
そう友達に言いました。私の学校から明治大学に行くのは不可能ではないが校内でもあまり成績の良くない私が明治大学に行くとなると本当に馬鹿なんじゃないかと変な目で見られました。

自分を追い込むためにクラスの黒板に「明治合格」とでかでかと書きなぐりました。

そうなると必死で勉強します。

それまでの人生で最も勉強しました。

友達の遊びの誘いも全部断りました。

そして落ちました。


こうして女子からのバレンタインデーのチョコレートを高校生活で一個も取得することができずに新潟の専門学校へと進出します。


~~~新潟へ、専門学校時代~~~


僕は生き物が好きだったので、それに関連した仕事をしたいと当時思ってました。
新潟にそんな感じの専門学校があり
一人暮らしもしたいと思っていたのもあり縁もゆかりもない新潟に来たわけです。

新天地で彼女を作るという希望を抱きながら!


この学校自体の学習内容もとても変わっているのですが、さらに変わっているのは生徒の方で、全校生徒100人余りなのですが、女子の人数は5人程度。男子も内向的で、虫や植物のことばかり考えている人間ばかり。
学校では女子に恵まれませんでしたが、幸いにも同性の友人で気が合う人が数人できました。 
その中の友人も同じような状況の人がいて、様々な地域からこの専門学校に高校時代手にすることのできなかった青春を求めてきたのです。

しかし自分達の学校の環境は彼女をつくるのに砂漠で探す自販機とまでの難易度とはいかないものの、あまりに選択肢に乏しく外部への進出を強制させられるような状況だった。

このままではいけないと思いこの地獄のような状況を打破するために
「童貞レース」なるものを開催。
このレースを開催したのは入学した年の5月ごろだったのですが
年を越すまでに童貞を卒業することのできなかったものは、
専門学校の脇にある
宇宙船というソープランドに送り込まれると言う罰ゲームを設定。


この宇宙船のレビューとしてインターネットに載っていたコメントは「まじで宇宙人が出てきた」でした。

私はこの場所に入ってはいけないと本能的に感じ必死になってあらゆる手段を模索しました。詳細は割愛しますが見事童貞を卒業することができました。
もちろん専門も卒業しそのまま新潟に就職することになります。

~~~ブレイクダンスとの出会い~~~

高校時代からずっと興味のあったブレイクダンス。新潟でやっている人はいないのかとひたすら調べていたところ奇跡的に専門学校の友人の知り合いがやっているという情報を入手。さっそくその友人に会いブレイクダンスをやり始めました。
とにかく学校が終わればすぐにダンスの練習をしにその友達と週に5日はダンスの練習をしました。
最初は技を覚える為にひたすらに練習していていましたが徐々に大技をできる才能がないとわかり、周りの評価よりも自分が楽しいと思う技をやるようになりました。
そしてダンスでできた友達とはダンス以外のプライベートでも遊ぶようになり
生活の中心はダンスとその仲間たちになりました。


~~~新潟での就職そして決断~~~


東京に戻らずの私は新潟で就職することになりました。
特に東京にいなくてはいけない理由がなく、そのまま新潟でダンスがしたいと考えていたからです。
そのままそれとなく仕事が終わったらダンスをして寝るという普通の人生を送っていました。


そして私は人生最大の決断をします。


~~~~旅に出たい~~~~


小学校時代に自転車でひたすらに冒険していた経験もあり。
高校時代から私はよく旅をするようになります。
1回目は東京から山梨まで自転車で行き2泊3日かけて達成しました。
道中自販機がない区間が長く、脱水症状になり民家に水を求め民家に突撃したのはいい思い出です。


その後専門学校時代は
新潟から東京まで自転車で行く
と言う長旅を計画し実行します。

この自転車旅は3泊4日かかりましたが「田舎に泊まろう」と言う番組に影響受けていた私は、それを真似し、寝床を求め実際に行動に移します。
不安はもちろんありましたが、お金も5000円程度しかもっていかなかったので宿に泊まるという道はなく、断られたら路上で寝るという選択しか残されていないので私はがむしゃらにお願いして、泊めさせてもらいました。
成功するかどうか不安でしたが3泊とも道路に寝そべって寝るような事はなく無事に止めさせていただくことができました。


いろいろな自転車旅を経験してきた私ですが
社会人になり今までで1番大きい旅の計画を立てます。
それはアメリカ大陸をヒッチハイクで横断すると言う計画でした。
当時は25歳で社会人真っ只中でした。
なぜ社会人の時にそんなことを考えたのかと言うと、
もうほぼ人生の折り返し地点だ、これからどうせ馬鹿ができなくなるからこのタイミングで
でかいチャレンジを成功させてまっとうな大人になると考えたからでした。


そしてこの計画には2ヶ月は期間が必要だということがわかり会社にその旨を話し退職。


そして旅に出ます、、、、2人の友人とともに、、、、

~~~アメリカ横断・序章~~~

ことのきっかけはYOUTUBEでアメリカで路上パフォーマンスをしてお金をもらっている映像を見たからです。

もしかしたら俺たちもダンスすればいけるかもしれない。
そう考えてこのアメリカ旅の計画を一緒にダンスをやっていた2人に話しました。


1人は快諾。もう一人はごねていましたが最終的に2人とも仕事を辞めてこの旅に参加してくれました。

今思うと頭がおかしいですね。

ルールはとてもシンプルで飛行機代は別として、
アメリカに到着してからは一人100$の手持ち金だけでLAからNYまで横断するという計画でした。

お金は何処から手に入れるかというと路上パフォーマンスから得ようと考えていました。


そして3人は意気揚々と旅に出ました。

~~~アメリカ横断・本編~~~

実際に旅は見事ルールを破ることなく成功します。

しかも時間に余裕があったのでわざわざアメリカ最南端の島キーウエストまで足を延ばしてそのままNYに到着します。

お金はどうやって集めたかというと、1割がダンスのパフォーマンスによって得たもの、残り9割は人々の寄付によって得たものです。
アメリカではこの人を助けたいと感じたらお金を渡す文化があります。ヒッチハイクをしていると度々「俺はそっちの方向じゃないけど応援してるぜ!!頑張れよ!!」といってお金をくれる人がいます。

意外とこの寄付によってもらえるお金の額が膨らみ(多いときは1日300$もらえました)ダンスパフォーマンスは疲れるし稼げないしで敬遠するようになりました。情けないですね。

移動方法の大半はヒッチハイクです。最後のタイミングでヒッチハイクが厳しく禁止されている州があり、この時に夜行バスで移動しました。2回だけ警察が来た時がありその州は完全にヒッチハイク禁止の州だったので厳しく怒られるのかと思ったら「ここはヒッチハイク禁止だから別の場所に連れて行ってやる」といって別の場所の連れて行ってもらいました。

寝床は、基本は野宿です。野宿といっても寝袋をもってマットを敷いて寝るのでなれるとすぐに眠りにつけるようになります。場所によっては警察に注意されることもあるのでホームレスの集落のようなところに行きそこで寝ました。アメリカのホームレスは非常に数が多くいたるところにいますが、彼らにも縄張りがあり1回だけもめたことがあります。
またアメリカにはホームレスの収容施設のようなところがあり寒くて寝れないような地域の場合そこに行って寝ました。
NYやワシントンなどの東海岸の方に行くにつれ気温が下がるので-氷点下の中ホームセンターの段ボールをかき集め段ボールハウスのようなものを自作して寝たのはいい思い出です。

3人でいろいろ大変なこともありましたが最高の思い出作りができました。そしてその間の出来事をすべてビデオカメラで撮りタブレットで編集したものをYOUTUBEに上げました。

これが私の映像づくりの世界の入り口です。

~~~そして現在~~~


アメリカ旅にを終えて日本に帰り私は新潟の会社に就職しました。

ただそこでも映像制作の楽しさが忘れらず就業中もPCを購入しカメラを購入し編集してました。

そしてのめりこみ続けていままで動画編集を副業としてやっていましたが独立しました。

映像には人の人生を大きく変える力があります。

現に私が映像を始めた理由はアメリカ横断へと駆り立てた映像があったからです。

ここまで読んで下さりありがとうございました。



最後に旅の動画を載せます。
クオリティには目をつむってくださいw



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