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大人になった私は、言葉の宝石を見落としていた


“想いの熱量”。そのものさしとは、何だろう。

娘と一番仲のよかった友達が、保育園を転園した。仲のよかった、というより、ほぼ一心同体。園へ送っていくと、その子がとびきりの笑顔で娘のそばに駆け寄って。そして必ず、手を握ってくれる。

お迎えへ行けば、「またあしたあおうね、ほいくえんくるよね?」キャッキャ言い合いながら、お互いをおんぶ、抱っこ。彼女たちの5年の人生のうち、そんな関係がもう3年もつづいていた。 


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私は事前にその子のお母さんから転園の話を聞いていて、娘にどう伝えようか悩みに悩んでいたのだけれど、ついに言いだせないまま、先生の口からクラスみんなに伝えられた。

「来年から、別々の保育園になるんだよ」

そう初めて聞いたときの娘といえば、「そうなの?ちがうほいくえん、たのしいといいね~!」と意外とケロッとしていたもので、私は拍子抜けした。

「絶対泣くと思ったよ」と伝えても、「そう?」。

想像をはるかに越えてあっさりしていたので、これはさらりと伝えてもよかったのかもしれないなあ、と。私は、やや安堵していた。


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娘は、週末になるとかならずと言ってよいほど「お菓子をつくりたい」と訴えてくる。チョコレートとドライフルーツのクッキー、ブルーベリーのマフィン、チョコバナナ。などなど。味を想像しながらつくるのが楽しいのだそう。

ときに失敗もあるけれど、経験としてハナマル。だと思っているので、とりあえず娘の使いたい材料を、ふんだんに取り入れてみている。

ある日私は、「あの子にプレゼント贈ろうか」と娘に提案した。

その日もまさにクッキーの生地をぎゅうぎゅうとこねている最中で、「お菓子やちょっとしたプレゼントをあの子に贈ったら、喜んでくれるかもしれないな」と閃いたからだ。

私のその言葉に、娘は「あげるもの、もうきめてあるの」と呟いた。つまみぐいしようとしていたチョコチップを力なく皿に返し、もう一度手に取ろうとはしなかった。

そっか、決めてあるんだ。自分のお気に入りのおもちゃでもあげるのかな。
それとも私と同じで、お菓子を包むのもいいなぁと思ってるんだろう。可愛いラッピングでも買いにいこうか。あの子は何のキャラクターが好きなの?

娘と相談したいことが、もくもくと頭のなかを駆け巡る。けれど、まぁ、また寝るときにでもゆっくり話し合うか。今はとりあえず、この歪な型のクッキーたちが美味しく焼けるか、だ。そんなことを考えていた。


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同じ日、夕食の支度を終えると、娘がなにかに没頭していた。毎日読んでいるお気に入りの絵本にも、おままごとにも、人形にも触れていない。なにかをカリカリと書いていた。

お絵描きかぁ。そばに座り、紙を覗く。そして私は、形容しがたい気持ちに襲われた。「○○ちゃんへ」の文字。あの子の名前だ。その下に、覚束ないひらがなで、たった一言。


「だいすき」


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「だ」は大きく書きすぎているし、「す」はグニャリと曲がってる。それでも、娘と彼女の物語のすべてが、そこに詰まっていた。

離ればなれになる親友。娘が贈ると選んだのは、流行りのおもちゃでも誰かと作ったクッキーでもなく、今の自分の”精一杯”で書いた、一筋の気持ちだった。

桃色のグラデーションが鮮やかなその便箋のふちに、娘の貼ったと思わしき小さな花のシールたちがキラキラと光って。娘の顔をそっと見ると、目に大粒の涙が溜まっていた。

じくじくと心が痛んだ。私は一体、なぜ、安心していたのだろう。寂しくないわけないのだ。

「これをぜったいにあげたかった。」

そう伝えてきた娘と一緒に、世界一短くて愛の詰まった便箋を封筒に入れ、ていねいに宛名を書いた。


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人は気持ちを伝えるとき、あるいは伝えてもらうとき、その大きさをつい「モノ」で測ってしまうことがある。

大きいモノ、高価なモノ、簡単に行けない場所、なかなか奮発できない食事。これらは、想いの熱量を伝えるための便利なツールだ。けれど、本当はきっと、もっとシンプルなのではないか。

「ありがとう」「嬉しい」「楽しい」

「ごめんなさい」「悲しい」「寂しい」

そして、「好き」。

大人になるにつれ、節々で言葉の迷いに遭遇する。便利なツールと引き換えに、大切な何かを見落としてしまう。

私がこれまで落としてきたものが何なのかは分からないが、これからは、自分の言葉たちを大切にしながら。飾ることなく、伝えていきたい。

たった5歳の宝物から、そんな、小さくもあたたかいことを学んだ。


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