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お金は棺に入らない、もしかすると愛も

関わるからには愛さなければという強迫観念のようなもの

が、私にはある。常にではないけれど、しばしばある。

本を買うとき。舞台を観るとき。新しいゲームを始めるとき。誰かと、所属を同じくするとき。

関わるからには愛さなければと思うと、生半可は始め方はできない。入念に下調べをする。本当に愛せそうかどうか吟味する。それはこんな言葉で試される。

「一生好きでいられるか?」
「すぐに手放すことはないか?」
「自分の棺に入れてもいいか?」

そしてまあ、「大丈夫」と返せるときもあるのだ。例えば大好きな舞台の円盤とか。

大好きの変容

何かに関わるとき、気軽に始めるのが、私にはとても難しい。理由はわからない。性格です。きっと。

とはいえ。

もちろん関わる全てを一生好きでいられるとは限らない。そんなにあれこれ棺に入り切るとも思えないし、死ぬ頃に何が好きなのかもわからない。

そして、大好きだったものを、時間が経っても完全無欠に大好きでいられるとは限らない。私が変わっていってしまうからだ。私をとりまく環境も変わる。私自身も、変わる。

さらに、対象それ自身が変化していくこともある。供給の続くコンテンツとか、続編のある物語とか、人間とか。続きができて広がっていく。続きができて、もともとあったものの解釈が変わっていく。人間は変わっていく。

そうすると、はじめのころに抱いていた気持ちも、変わっていくだろう。

恋したならばそれでよかった

手に取る時に「一生好きだ……」と思うのは、恋に似ている。書いていてそう思った。一生好きでいられる保証はどこにもない。たぶん、そうならないことの方が多い。それでも「一生好きだ」と信じられるのは、ちょっと気が狂っている。その気が狂った状態を信じているのかもしれない。気が狂うほど好きならば、それでいいのだと。

それは恋っぽい。

私は恋多き人間なのかもしれない。少なくとも、恋状態のことを信頼している。盲信していると言っても過言ではない。

うわー。そうかー。

手に取る時の思いの最大瞬間風速を、その勢いの強さゆえに一生続くのだと信じてしまうのは、すっかりおかしな話なんだけど、私がそう信じているならばそれでいいのだ。

うわー。

恋していないものを試してみること

この間、ある舞台の無料配信を見た。

舞台を見るならば、ご飯をお風呂を終えて、飲み物を用意して正座して見よう、というのが私の本来の考え方だ。

でもその時は、料理をしながら見た。スマホを台所の壁に立て掛けて、Bluetoothイヤホンで。包丁がまな板に当たる音や、肉を焼く油の音、換気扇の音を聞きながら。横目で。

結果、それが私にはちょうどよかった。

聞き逃したセリフもある。見逃したシーンもたくさん。料理の状況によっては視聴を中断したかもしれない。実際、カーテンコールの頃には片付けも終わったから視聴をやめた。

それでも楽しかったし、それでよかった。

じっと見ていると、大好きとは限らないものも、100%受け取る。それで大好き度が下がることもある。でも、力を抜いて、横目くらいで見ていれば、大好き度がすごく上がることはないかもしれないけど、大きく下がることもない。

そういう関わり方をしてもいいのかも、と気づいた。

棺に入れようとしないで、ただ眺めてみること。

大好きの強要から逃れる

社会は何かを大好きにさせようという圧に満ちている。資本主義社会だからだ。

ちょっといいものに憧れる。お金が足りない。悔しい。もっと稼ぐ。もしくは、無理に買う。

それを、私は、稼ぎが足りないからだと思っていた。情けない、こんなに大好きなのに、相手にお金を返すことができない。もっとたくさんお金があれば。

そう、個人的なことだと思っていた。

だけど、それは社会の仕組み上仕方がないことみたい。そう思うようになった。それでちょっと楽になった。

ちょっと高いものを買ってほしい。それには、大好きになってもらうのがよい。だってそれならWin-Winだし。お客さんは喜んでお金を使ってくれるし、使い続けてくれるし。たくさんお金を稼いで、たくさん使う。そういう仕組みだからだ。

でも、こういう見方もある。「ちょっと高いな」と思うものは、そもそも客層と想定されていない、っていうやつ。これは自分が売る側だと思うとしっくりくる。

そもそも無理しないと買えないものは目に入らない仕組みとかになっていれば、こんな惨めで悔しい気持ちにはならずにすむ。預金残高も減らずにすむ。

でもまあ、欲しくなるものはある。特に恋しちゃって、気が狂って、一生大好きだから買いたいよおと思うような時には。

恋は自分の問題だ。そう思いがちだ。だから理由として強い。でも、恋は気が狂った状態だから、気をつけなければならない。それは仕組まれたことではない? と。

気が狂っているから、そんな問いかけは往々にして無意味だけれど。

でも、「なんでこんなに好きなのに私にはお金がないんだ」と思ってしまうときには、思い出したい。その恋は仕組まれたものではないか? って。それはよくある話だよって。

気軽に始める、身の丈に合ったものを探す

言いたいことがめちゃめちゃになってきた。

- 大好きになろうとせずに、試してみる
- 大好きなものを買いたくて、でもお金が足りないときには、「そういう社会に生きているから」と思ってみる

こういうこと? かな。たぶん。

だけど、やっぱり、「棺に入れてもいい」と思うような感情は気持ちがいいから、気が狂いたくなっちゃうよね。わかるよ。

すごく腰が重い。腰が重くて愛が重たい自分のことは嫌いじゃない。けど、そうじゃない関わり方もできるようになりたい。できれば。

ごきげんオタクライフに使わせていただきます🌱