見出し画像

ざわざわディナー / カンパニー・ファンタジック / 嬉しさフェスティバル

ざわざわした場所で飯を食う

3ヶ月ぶり? に、外食をした。家でないところで何かを食べるのが、久しぶりで。
(外出の予定があり、遅くなりそうだったので、どこかで何か食べて帰ろうと思っていた。何食べようかなと思っているうち、見慣れた看板が見えて、吸い込まれるみたいに入っていった。サイゼ。)

席について、嬉しかったのが、ざわざわしていること!!
知らない人が大勢で、好き勝手話している声。物音。広い空間。

全部、久しく、なかったもの。

知っている人と暮らして、知っている人と通話して、知っている人の顔を見て。そうしてずっと過ごしてきた。
外に出るってこういうことかあ、と思う。

嬉しいな。

そういえば、この間、居酒屋さんのデリバリーでおうちディナーをした。無意味に浴衣を着て。お外の味は美味しかった。浴衣だったからお祭りみたいだった。たまにはああいうのもまたやりたい。

在宅勤務3ヶ月目の気付き、3個

在宅勤務が3ヶ月目に入った。

会社のために働くこと、自分以外のメンバーに気を配ること、ただの嫌なやつにならないためにはどうしたらよいのか(信頼残高を崩さずにいる、できれば増やす)について考えるようになった。

会社のために働くこと:これまでは、直接関わるお客様や社内の人のことを考えて働いていたと思う。具体的な人物。個人。でも、会社にとってどうかな、という視点が入ってきたように思う。不思議。何でだろう。会社にとって、というのは、曖昧な話だ。なんか、会社、というファンタジーを信じるようになってきた? ファンタジーの文脈に乗ってきた? 感じ? なんだろう。

これは、なんでかわからないが、リモートで働く→会社のメンバーとの断絶、孤独、寂しさ / 疎外感、自分に価値がない感じを感じる→離れてはいるが同じ会社に勤める人であるということ / 私がいなくても会社がなくなることはないだろうが今私がいるから回っている部分も多少なりともあることを意識するようになる→会社、というモヤモヤした枠のことを考える / 私がその一員であることを意識する、という流れかもしれない。

変な話だ。
「離れているが繋がっている」と信じるためには、ファンタジーが必要なのかもしれない。「離れているが繋がっている」ということは、「見えない繋がりがある」ということで、それはもうファンタジーだ。
今回はそれが「会社」だったみたい。

会社のために働く、と思うとき、私情が少し引っ込む。自分がやりたいから、も大事だけど、それが会社の、または会社の存続の、ためになるか? という視点が入る。これまでその視点はなかったのかよという感じですが、その時関わっている特定個人のことだけ考えていてもまあ回るというか、なんとかなるのですな。それはその人の役に立つ、それを通じて世の中の役に立つ、という観点で。

自分以外のメンバーに気を配ること:これもやってなかったのかよという感じですが。
同じ空間にいると、心が先に走ってしまって、結局身体は何もしない、ことがある。わりとある。特に私は、同じ空間にいる人に対しては「あ、ちょっと揉めてる、どうしよう」とか、「ああ、フォローした方がいいかな……余計なことかな……」と悩んで様子を見ているうちに「まあいいか……」と思って何もしないことがままある。腰重野郎なのだ。わかるー。そういう奴ー。
でも、顔が見えないと、「困っているな? はいこれ」みたいな感じで、余計なことを考えずに、できるフォローを行動に移せる気がする。不思議だ。肉体が苦手なのかもしれん。
顔が見えないからこそ、今何してるのかとか、詰まってないかとか、ストレス溜まってないかとか、気にできるかも。

ただの嫌なやつにならないためにはどうしたらよいのか(信頼残高を崩さずにいる、できれば増やす):文字だけのコミュニケーションの難しさ、みたいな話。社内SNS上で何か議論が(喧嘩ではなく)起きた時に、会社にいれば、後で「さっきはすいません〜」とか「丁寧に教えてくださってありがとうございました〜」とか、改めて声をかけることができる。そこで相手が「あ、いえいえ〜」って笑ってくれるとか、「ああこちらこそ、さっきみたいなときはこれこれこういう考えもあって〜」って追加で何か教えてくれるとか、そういうフォローがありえた。だけど、離れた場所にいるとそれは難しい。直接話せば相手の気持ちはわかったような気になる(少なくとも安心材料は増えることが多いと思う)けど、やはり文字だけでは限界がある。特に、テキストがそっけない場合は。例えば、句点がないとか、絵文字がないとか、言葉の選び方がぶっきらぼうとか、いろんな要素があるけど(受け取る側が何をそっけないと感じるかという特徴も色々ある)。
そうすると、信頼残高がだんだん減る。書き手に悪意があろうとなかろうと、読み手にささやかな傷つきや、疑いや、不安を感じさせてしまったら、それはもう信頼残高の引き落としだ。
それをリモートでカバーするのは非常に難しい。そもそも引き落とされたことに気づくのが難しい。
だから、世の会社には、雑談会とかがあるのかもしれない。と、思いました。失われたものを埋め合わせる会。怒ってないよと示せる場。もちろん、息抜きとか、とはいえ情報交換とか、意味合いはいろいろあるだろうけど。
相手の意図に関係なく、信頼残高が下がっちゃうのは困る。けど、なくすことはできないように思う。その、自動引き落としを。そのカバーの仕方は、これから考えていかなくては。ただでさえ、一人でいると、「私なんてどうでもいいのだ」って悲観的になりやすいから。最近は朝の散歩とか筋トレで、セロトニンの定期生産を図っていて、メンタルはかなり安定してきたが。

まあそんなことを考えてる。

本をお迎えしてもらえて嬉しい

書いた本をお迎えしてもらって嬉しい。狂喜してる。嬉しすぎて自分のためにケーキ買って食べちゃった。嬉しさフェスティバルや。ありがとうございます。
買ってくださる方を反射的に愛してしまうから、好きな本の作者を愛さねばという気持ちになるんだろうか?
※なんかこの辺の話 https://twitter.com/your_re/status/1270836841474736129?s=21

私は書いたものを気に入ってもらえることと、私自身を気に入ってもらえることはわりと離して考えている。

ごきげんオタクライフに使わせていただきます🌱